最高位は西三段目7枚目の淡路海(26=田子ノ浦)が九州場所で引退し、今後は兵庫・園田競馬場で厩務員として競走馬の世話をすることになった。

今年の春場所から初めて、田子ノ浦部屋が同競馬場を部屋宿舎として利用したことが縁。中学卒業後に角界入りし、馬の世話については、全くの素人ながら新たな世界に飛び込むことになった。

「地方競馬だと資格や経験などはいらないということだったので。本当は競馬は好きじゃなかったけど、馬は好きなので決めました」。第2の人生では“巨漢”と呼ばれた200キロ超の力士よりも、さらに2、3倍ほど大きな相手と向き合うことになる。

現在も100キロに満たない細身だが、10年前の入門からしばらくは80キロにも満たなかった。そんな体で、若の里や稀勢の里ら、当時の関取衆に胸を借りた。押しても押しても、相手は動かない。元鳴戸親方(元横綱隆の里=故人)のゲキが飛ぶ。当時の鳴戸部屋は猛稽古で知られ、相撲担当になって間もなかった10年近く前の私は、あの体で大丈夫か、すぐに辞めてしまうのではと思っていた。若の里や稀勢の里の大きさ以上に、淡路海(当時のしこ名は坂辺)の小ささ、細さの方が印象に残っていた。

だが淡路海は強かった。たしかに番付では幕下にも届いていない。それでも「何度も辞めようと思いました。逃げ出したい気持ちになりました。先代(元鳴戸親方)は本当に怖い人でしたから(笑い)。でも地元で応援してくれている人の顔を思い出したら『逃げ出しちゃいけない』と踏みとどまることができました」と、気持ちの強さがあった。「15歳の時に先代がスカウトしてくれて、今の自分がある。相撲界で貴重な経験をさせてもらえたのは、先代がいたからこそ。先代には感謝しかないです」。10年余りの土俵人生は誇りにあふれている。

若の里、稀勢の里、高安の付け人を務め、それぞれから絶大な信頼を得ていた。それは、共に厳しい稽古を乗り越えてきたからこそ生まれた、絆のようなものに由来するのかもしれない。特に横綱の付け人を務めたことには「綱打ちや綱締め、弓取り式。普通の付け人ではできないことを、やらせてもらいました」と振り返る。弓取り式は一般的に横綱の付け人が務め、淡路海は本場所での経験はないが、巡業では何度も務めている。9月の稀勢の里の引退相撲でも弓取り式に指名され、当初の5月夏場所後の予定よりも半年間、自身の引退を遅らせた。両国国技館では初の弓取り式を終えた直後には「最初で最後の、国技館での弓取り式。いい思い出になりました」と、しんみりと話していた。

九州場所で最後の取組を終えると、引き揚げた花道に、元横綱稀勢の里の荒磯親方が待っていた。「お疲れさま」。荒磯親方からねぎらわれ、花束を渡された。「ありがとうございました」と返し、握手を交わすと涙が止まらなくなった。「泣かないつもりだったんですけどね。(荒磯)親方を見たら、どうしても泣いてしまいました」。さまざまな思い出がよみがえっていた。

その九州場所は、7番相撲で勝てば三段目の優勝決定戦に進むというほど絶好調だった。最後に敗れたが6勝1敗という堂々の成績。「まだやれたのでは」。そんな質問にも「悔いなく終われました」と返し、すがすがしい表情を見せた。

すでに九州場所の千秋楽パーティーで断髪式も済ませた。新たな人生は「やりがいがありそうで楽しみです。朝が早いことや、力が必要なのは慣れているつもり。馬の後ろに立つと蹴られるらしいので、そこは注意しないと」と、前向きにとらえ、笑った。多くのファンに愛された横綱を支えた淡路海が、今度は地方競馬でファンに愛される馬を支えていく。再び始まる新弟子生活にも、目を輝かせていた。

【高田文太】

(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)