自分のこれまでの時々で大切な人と出会った。その人たちがボクを助けてくれた。父ちゃん、中学校の担任の依田先生、1988年(昭63)の初めごろかな、職もなくブラブラしているときに入った喫茶店の娘で、手伝いをしていた徳丸るみという女性もそうだった。後の嫁はんだけど、るみもまたボクのターニングポイントで味方をしてくれた人やった。

4歳年上の女性。妙にひかれるものを感じて、会えば会うほど、話をすればするほど興味が膨らんだ。「夢は?」と聞くから「世界チャンピオンになる」と答えると「夢があるならプータローちゃうやん。アンタの言うことをするか、せえへんかの問題だけやろ」と諭された。18歳になる前の春、2人は大阪で一緒に暮らし始めた。「ボクシングをやれ」とは言わない。今もそうやけど、強制はしない。「やりたければ、やればいい」。そんな言い方をする。その言葉に背中を押されて88年秋、ボクは大阪帝拳ジムに戻った。ブランクからちょうど1年たっていた。もしかしたら出場していたかもしれないソウル五輪が開かれていたころだった。

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辰吉は勘を取り戻すためというジム側の意向で、大阪府民祭というアマチュアの試合に出た。3戦3勝して、アマボクサー時代を終えた。戦績は19戦18勝(18KO、RSC)1敗。それ以後1989年(平元)秋のプロデビューへ突き進んでいくことになる。

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待ち望んでいたプロデビュー戦は、89年9月29日、大阪府立体育会館(現ボディメーカーコロシアム)の第2競技場だった。相手は韓国の20戦近いキャリアを持つ、29歳のベテラン。吉井清会長(故人)が、日本や韓国、フィリピンのバンタム級ランカーに声をかけてくれたけど、みんな断られたと聞いた。それで、元韓国のバンタム級2位だった崔相勉という選手とやることになったけど、正直「いきなりこんなベテランとやるのか」と緊張した。だけど「やってやる」と肝も据わった。6回戦の予定だったけど、1回にダウンを奪い、2回、左ボディーブローから右カウンターで仕留めた。これが19歳、プロボクサー・辰吉丈一郎の船出。もう25年近くプロボクシングという大海原で航海していることになる。

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辰吉の2戦目は、東京ドームで世紀の大番狂わせと言われた世界ヘビー級戦でマイク・タイソンが敗れた試合の前座だった。タイの前王者との10回戦で1回にプロ初ダウンを喫したが、2回KO勝ち。3戦目は7回KO。4戦目で早くも日本バンタム級王座についた。5戦目も鮮やかな2回KOと進撃を続けたが、6戦目に10回引き分けの試合をし、ジム側の「7戦目で世界戦」のもくろみは狂った。

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1991年(平3)2月17日の6戦目は、世界7位のアブラハム・トーレス(ベネズエラ)が相手でとにかくやりにくかった。悔しい引き分け。自分の未熟さも知ったし、いい経験をさせてもらったと思っている。とにかく、7戦目を挟んで、8戦目に世界に挑戦することになった。

最速世界奪取直後、左目に違和感 黒い点が見え隠れ /辰吉連載5>>