6戦目で引き分けたボクは、7戦目を1991年(平3)5月19日、フィリピンの世界ランカー、レイ・パショネスとやった。結果はアウトボクシングも出来るところを見せようとしたら、10回判定までいってしまった。勝ちは勝ちだけど、見てる方は不満やったようで、その評価にボクはカチンときた。「よし、それなら徹底的にKOを意識するボクシングやったる」と思ったものだ。

ボクはこの頃、既に魅せるボクシングを考えていた。軽やかに足を交差させる“アリ・シャッフル”というフットワークはカッコええと思うから取り入れた。そして、ボクはオーソドックススタイルでガードを下げて構えた。「都市伝説」みたいになっている「辰吉はケンカする時、相手が右足で蹴ってくる場合が多く、それを下げた左手で振り払い、右手でパンチを繰り出すことができるから」ガードを下げている、という解釈が出回った。ボクもそんなことを言ったこともあるけど、実はこれもモハメド・アリをマネたもので魅せるボクシングをするためだった。日本でガードを下げてウイービング、ダッキングだけで相手のパンチをかわすボクサーはあまりいなかった。だから、そんな戦い方をやってやろうと思った。

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辰吉は91年9月19日、プロ8戦目で、WBC世界バンタム級王者のグレグ・リチャードソン(米国)に大阪・守口市民体育館で初の世界挑戦をした。34歳のベテラン王者はアマチュアの経験も豊富なテクニシャンだった。その難敵相手に辰吉は、グイグイと前に出て、10回にはリチャードソンをダウン寸前まで追い込んだ。そして、そのインターバルが終了しても王者はリングに出てこなかった。辰吉の10回終了TKO勝ち。8戦目での世界王座獲得は、当時の日本人最速記録だった。

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「父ちゃん、やったで」。リング上から岡山の父ちゃんに自慢した。「出世するけん」と岡山から出てきて5年と4カ月。ボクは、父ちゃんと約束したことができた、と思った。それと同時に「世界チャピオンになる」と言った自分の言葉にも責任が果たせた。今までプロ28戦を振り返って「一番の思い入れの試合は?」と聞かれたら、やっぱりこの試合やと答える。

この世界戦の2カ月ほど前、ボクとるみは守口市役所に婚姻届を出した。るみのおなかに小さな命が宿っていた。妊娠を機にけじめをつける意味もあった。いずれ自分もオヤジになる強い気持ちが、あの世界戦で爆発したとも思っている。

世界チャンピオンになり、結婚して子供も生まれる。思い描いた通りに事は運んでいた。その年の11月には初防衛戦の発表も行われ、年明けの2月6日に予定されている試合に向けてトレーニングをしていると、どうも左目がおかしい。黒い点が目の端に見え隠れする。

最初は、目にゴミが入ったのやろうぐらいにしか、考えていなかったが、やっぱり、おかしい、ひょっとして…。12月に入り病院で検査を受けることにした。

負けてわかった「家族のため」ではなく「自分のために」 /辰吉連載6>>