1994年(平6)12月4日の薬師寺さんとの世界王座統一戦に判定で敗れたけれど、リングを下りる気持ちはなかった。「自分で決めたこと。負けたままでは家へ帰れん」の思いがボクには宿ったままやった。患った網膜剝離(はくり)に関する日本ボクシングコミッション(JBC)のルールは緩和されたけど、日本国内で試合できるのは世界戦か、それに準じた試合という条件付きのものだった。

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辰吉はそのため、米ラスベガスで2試合(連続TKO勝ち)を挟み、ブランクを作りたくないということから96年3月3日、WBC世界ジュニアフェザー級(現スーパーバンタム級)王者のダニエル・サラゴサ(メキシコ)に横浜アリーナで挑戦した。超満員に膨れ上がった会場での試合は、辰吉が両目をカットするなど劣勢で、11回TKO負け。さらに、97年4月14日にサラゴサに再挑戦したが、12回判定負けを喫した。

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これで薬師寺さんの試合から世界戦3連敗。「辰吉は終わった」という声も聞こえた。ボクは次に勝てればいいと考えた。あきらめへん。チャンスは必ずくる。そのチャンスは思っていたよりも早くやってきた。それも自分のバンタム級に戻しての挑戦だ。相手はシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)。シリモンコンはムエタイを60戦経験して国際式に転向して16戦全勝(6KO)の20歳の王者だった。でかい、若い、勢いがある。どう見ても、分が悪い。勝つとすれば、7歳上の年齢くらいのもので、経験はボクの方がある。ボクが10歳の時、相手は3歳か。そんな子には負けられんわ、とポジティブに考えるしかなかった。

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97年11月22日、辰吉にとって通算5度目の世界挑戦が大阪城ホールで行われた。バンタム級のリミットは53・5キロ。前日計量では両者ともにリミットだったが試合当日、シリモンコンの体重は62~63キロあり、辰吉は57~57・5キロ。体重差は約5キロあり、辰吉は3階級上の相手と戦っていたことになる。

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リングに上がって、シリモンコンを見て「うわあ、デカッ」と2度見したほどやった。作戦は相手が大きくても絶対下がらずプレッシャーをかけて、ボディーも攻めていく、勝負は中盤、と考えていた。それがうまくはまって、7回得意の左ボディーブローでこの試合2度目のダウンを奪って、立ってきたところを連打でTKOした。左のボディー打ちには自信があった。プロボクサーになったころから磨き上げた武器だった。実は、ボクは左手を前に出すオーソドックススタイルで構えるけど、本当は左利きやから、左が得意なのかもしれん。

27歳で3度目の王座に返り咲いた。その後、2度防衛に成功したけど、98年の年末にまた大きな試練が待っていた。

ウィラポンに勝てばリング上で引退を表明するはずやった /辰吉連載9>>