ボクには2人の息子がいる。長男は1992年(平4)1月生まれの寿希也(22)で、二男は96年8月生まれの寿以輝(17)。97年11月にシリモンコンに勝ち、王座に返り咲いた時、リング上でボクが肩車しているのが寿希也で、抱っこされながら思い切り泣いていたのが寿以輝だ。この子たちが、だんだんオヤジのことが分かってくる中で、ボクは戦い続けた。

シリモンコンに勝ったあと、2度の防衛に成功して98年12月29日、3度目の防衛戦を迎えた。相手は元WBA世界バンタム級王者のウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)。このウィラポンとは2試合続けてやるのだが、この2試合の記憶はところどころしかない。6回に左フックを浴びて、プロ2戦目以来のダウンを喫して、起きたところを連打を浴びて、最後は右ストレートを左こめかみに受けて、あおむけに崩れ落ちたらしい。そのまま、試合はノーカウントでストップし、ボクは失神KOされた。後でビデオを見たら、練習してきたことがまったくできていなかった。衝撃的なKO負けだった、と人は言うけれどボクには記憶がないのだからなんとも言いようがない。

ベルトを失って迎えた99年の正月。ウィラポンとの再戦に向けて、かつて痛めた左目網膜の補強手術をするために、入院した。退院を間近に控えた1月31日。中学時代の恩師、依田進吾先生から父ちゃんが吐血して倒れ、病院に運ばれたという知らせを受けた。ボクは外泊許可をもらい、岡山に駆けつけたけど、到着したのは父ちゃんが息を引き取ったあとだった。52歳、出血性胃潰瘍という病名だった。火葬場でまだ温かい父ちゃんの骨を家族4人で食べた。

父ちゃんが最後に見たのは、ボクが失神KO負けした姿だった。これでは、やめるにやめられない。「ウィラポンには借りを返す」と誓った。

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99年8月29日、大阪ドーム(現京セラドーム大阪)で王者・挑戦者の立場を入れ替えて、辰吉はウィラポンとの再戦に臨んだ。網膜補強手術のあと、3カ月間の安静期間もあり、14キロの減量を強いられ、前日計量の際、ドクターから「脈拍が速く肌に張りがない。減量の影響があるのでは」と体調面が懸念された。辰吉は、父粂二さんの写真を刺しゅうした白地のガウンをまとい、リングに上がり雪辱を期したが、7回TKO負けを喫した。

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父ちゃんと一緒にリングに上がるのは、この日が最初で最後と決めていた。ウィラポンに勝てば、リング上で引退を表明するはずやった。この試合もあまり覚えていない。気がついた時、控室でボクは「普通のおとっつぁんに戻ります」と言った。しかし、すぐに考えは変わっていた。翌日の記者会見でも「引退」のようなニュアンスのことは言ったが、はっきりとは言ってない。腹の中では「まだやる」と思っていた。この翌日会見が終わり、家に帰ってボクは腫れた顔のままロードワークに出た。

「世界王者になってやめたい」これがボクの目標や /辰吉連載10>>