プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。「藤波辰爾のプロレス人生50年」第2回は、プロレスとの出会いについて。同郷の先輩、北沢幹之氏と苦労の末に出会ったことが、藤波のプロレス人生の始まりだった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は陸上部だった中学時代、テレビを見てプロレスラーへのあこがれを抱いた。親に内緒で実家のある大分・東国東郡(現・国東市)から、大分市内へプロレスを見に行っていた。チケットは市内で働いていた兄が用意してくれた。頭の中はプロレスでいっぱい。自転車で約4時間。山越えの険しい砂利道も全く苦にならなかったという。

藤波 ただプロレスが見たいという一心で勇気を振り絞って。たまに学校をサボって行ったこともあるくらい(笑い)。親には怒られたが、授業のことなんか頭になかった。今から思えばよく行ったなと。

興味とは反対にケンカは嫌いだった。体が大きくいじめには遭わなかったが、痛いのが嫌で、学校での柔道ですら怖かったという。中学卒業後、工場で働いていたが「プロレスラーに会いたい」という欲求を押さえきれず、自ら行動に出た。同郷の北沢氏が足の療養で別府温泉に来ていることを聞き付け、探しに行った。兄と旅館を何十軒も歩き回り、やっとのことで北沢と対面した。

藤波 プロレスラーは怖いイメージがあったから、兄についてきてもらった。(北沢は)小さい方だったけど、大きく見えたなあ。足も震えていた。あの熱意は今でも不思議に思う。何かに取りつかれていたような感じだった。

藤波の熱意に北沢が応え、一緒に上京した。格闘技をやる性格でないことは親も承知。意志を伝えると驚かれ、反対されたが、押し切った。日本プロレスの門をたたいた。周りは相撲や柔道、格闘技の経験がある猛者ばかり。正式な入門もしていない藤波は当時、第一線で活躍していたアントニオ猪木に出会う。初めて聞いた猪木の言葉は「おい北沢、あいつ誰だ?」だった。北沢氏が「同じ田舎のプロレス好きで、猪木さんのファンだから連れて来たんです」と紹介してくれた。

藤波 相撲部だったら親方がスカウトしてくれる。プロレスは大衆化していないので、よほどケンカが強いか、柔道の有段者とかしか入って来られなかった。自分は異例中の異例だった。

「北沢さんに会ってなかったら今の自分はない」。心優しい藤波少年の熱い思いが運命の出会いを呼び、夢の実現につながった。日本プロレス入門後、家族以上の付き合いとなる猪木の厳しい指導が始まる。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。