ジャイアント馬場さんが1972年(昭47)に全日本プロレスを創設してから半世紀、団体の「50周年記念大会」が18日に東京・日本武道館で開催される。

90年代には、年に7回もの興行を開催した「聖地」に、18年7カ月ぶりに戻る。和田京平レフェリー(67)は黎明期から団体を支え、馬場さんの付け人を10年間務めた経験も持つ。レジェンドと、日本武道館の思い出を聞いた。【取材・構成=勝部晃多】

全日本が「聖地」に戻る。72年10月の旗揚げから50年のメモリアルイヤー。これまで、日本武道館では110回超の興行を開催してきた。三沢、川田、小橋、田上の「四天王」らが活躍した90年代には、最大で年7回もの興行を行い、ファンを魅了した。

和田レフェリーが真っ先に思い出す場面がある。武道館から、それぞれ思いを抱え帰って行く観衆を見つめる馬場さんの横顔だ。

「四天王が中心の時代。馬場さんは会場でメインを観戦することはなかった。外にあるグッズ売り場のテントの中で、ザワザワとお客さんが帰っていく様子を楽しんでいたんだよ」

地下鉄九段下駅に向かう1万5000人超の観衆。馬場さんは1人1人に、目を光らせた。その表情から試合の満足度をはかり、次の興行へとつなげた。観戦しなくても、ファンの目つきから、馬場さんには“見えていた”のだという。

「馬場さんは、常日頃から大きなスポンサーはいらないと言っていた。大きな1つよりも、お客さんの数が集まれば確実に強い。そういう信念を持っていたね」

当時の日本武道館大会では、次の興行の前売り券を販売していた。いつも長蛇の列ができた。和田氏は、その様子を馬場さんに、「次の武道館も売り切れたみたいです」と伝えたことがあった。馬場さんの反応はため息ひとつ。そして「はあ。それは手が抜けないな」とつぶやいた。

「馬場さんの感覚でいうと、売れたからこそ、もっとすごい試合を組まないといけない。そうしないとチケットは売れないんだって言っていたよ」

そんな馬場さんの徹底した「お客さまファースト」の姿勢は、失敗から得た教訓だった。90年には天龍をはじめとする多くの選手が新団体に移籍し、存続の危機に陥った。選手権試合で続いていたあからさまなリングアウトや反則裁定の決着は、ファンの批判の的になった。

「『プロレスをダメにしたのは俺ら。こんなにお客さんがいなくなってしまったのは、俺の責任だ』と反省していた。それからはレフェリーの我々は、絶対に反則負けにさせるな、プロレスは1、2、3(で決着)だ、とたたきこまれたね」

ファンが満足する試合を追求する。その姿勢が、全日本の黄金期を築いた。馬場さんが死去して23年。団体は50年の節目を迎えながらも、現状、存在感も含め、新日本プロレスの後塵(こうじん)を拝しているという位置づけは、否定できないところだろう。

「私たちはバトンを渡した。走る方向を決めるのは新しい世代です」と和田氏は言う。今こそ、馬場さんの精神を再確認する時ではないか-。その舞台はまず、注目を集める18年7カ月ぶりの日本武道館となる。

◆和田京平(わだ・きょうへい)1954年(昭29)11月20日生まれ、東京都足立区出身。72年に全日本に入団。ジョー樋口、マシオ駒に師事し、74年にレフェリーデビュー。ジャイアント馬場さんの付け人を10年務めたこともある。11年6月に、当時の武藤敬司社長を批判して全日本を退団。13年7月に、名誉レフェリーとして復帰した。

<全日本プロレスの歩み>

◆設立 日本プロレスを退団したジャイアント馬場が初代社長に就任。72年10月21日に東京・町田市体育館で旗揚げ。

◆興行戦争 75年12月の力道山十三回忌興行をめぐり、新日本と対立。新日本の蔵前国技館の興行日に、全日本は国際プロと組んで追悼興行を開催し、新日本は不参加に。力道山の威光も2団体の対立はおさまらなかった。

◆成長期 80年代前半にジャンボ鶴田が台頭。ミル・マスカラスやテリー・ファンクなどアイドル的な人気を博したベビーフェースの外国人選手も登場し、全日本人気の火付け役に。

◆外国人引き抜き合戦 81年5月、全日本の人気選手ブッチャーがIWGP構想に賛同したという理由で新日本に移籍。全日本はタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンを引き抜いて報復した。

◆四天王プロレス 90年に天龍をはじめとする多くの選手が離脱も、三沢、川田、小橋、田上らが活躍。日本武道館大会を中心に大成功を収める。

◆大量離脱 99年に馬場が死去。三沢が社長を引き継いだが、経営方針の違いから解任。00年に選手、役員が大量離脱した。

◆新日本と雪解け 00年に新日本との交流を提案。同年10月の全面対抗戦や選手の相互派遣などで01年までは友好関係を結んだ。だが、02年の武藤、小島らの集団移籍で、蜜月の時期は終わった。