真っ暗な会場に蛍の光が流れ、観客もペンライトを振りながら歌う。ドームのお別れコンサートではない。中心には羽織はかまや締め込み姿の大男がいた。蔵前国技館最後の場所となった84年秋場所千秋楽。しんみりとしたフィナーレも、初日前から何かざわつき、列島を騒がせた場所だった。

場所前に立ち合い研修会があり、必ず両手をつく正常化が打ち出された。マラソンのスタートのような立ち腰、自分勝手な立ちしぶりなどが目立っていた。春日野理事長と二子山理事長代行という栃若の厳命に、力士は神妙ながら戸惑った。実際に場所ではチョン立ちで不成立とされ、5度仕切り直した一番もあった。

夏場所全勝優勝で復活した北の湖が、首を痛めて3日目から休場した。千代の富士、隆の里の両横綱に、2度目の横綱挑戦の若嶋津も早々に土がついた。全勝ターンは平幕多賀竜だけ。土俵は腰が据わらず、落ち着きがなかった。

混沌(こんとん)とする中、終盤戦に大旋風が起きた。入幕2場所目の小錦が10日目に勝ち越し、優勝戦線に生き残っていた。11日目には隆の里を押し出し、横綱初挑戦で初金星を挙げる。入門してまだ2年2カ月も破壊力抜群だった。

さらに若嶋津の綱とりを阻み、次期大関候補大乃国も撃破する。14日目には千代の富士をもろ手突き5発で吹っ飛ばした。多賀竜に1差で、千秋楽に大逆転Vがかかった。黒船襲来。300年の国技を揺るがすと言われた激震となった。

当時の記者クラブは別棟2階にあった。片隅に昼寝できる畳敷きスペース、雀卓も置かれていた。支度部屋ではたばこが吸え、力士は素足で床に踏みつけて消していた。おおらかだが、閉鎖的でもあった。

当時の外国人力士は9人で、多くの親方衆は否定的だった。ハワイ生まれの若造に次々と看板力士が倒されて「日本人の恥」とまで言った親方もいた。小錦も「協会はこれね」と頭の両脇に指を立ててみせた。「怒ってるでしょ。外国人がダメなら入れなければいい。力士になったボクは勝つだけ」と言ったものだ。

72年名古屋場所で外国人初優勝の高見山は夏場所で引退していた。バトンを受けた後輩の快進撃。大関、横綱も現実味を帯びたが、結果的に琴風に敗れて優勝はならず。翌九州場所はケガで途中休場。協会幹部は胸をなで下ろし「相撲は甘くない」と言い放った。

その後は大けがもあり、大関になったのは3年後の87年夏場所後だった。89年九州場所で初の賜杯も手にしたが、横綱の座は遠かった。ハワイの後輩の曙にも追い抜かれた。大関陥落決定の黒星は、横綱曙に喫したもの。陥落後はしのびない土俵もあった。

それでも200キロを超す巨体から爆発させた、驚異のパワーは衝撃の記憶だ。今も世界中で人種差別が問題となっている。角界でその壁を乗り越え、外国人初の大関となった。あの蔵前の悔しさが始まりで、両国国技館でのモンゴル全盛への道筋も作ったと言えるだろう。【河合香】