イランを代表する巨匠アッバス・キアロスタミ監督が亡くなって5年。初期7作品をデジタルリマスター版で上映する「そしてキアロスタミはつづく」が16日から始まった。92年の初来日以来通訳を担当、遺作となった「ライク・サムワン・イン・ラブ」(12年)では監督補を務めたショーレ・ゴルパリアンさんにキアロスタミ作品の魅力を聞いた。

さりげなく見えながら、計算され尽くした構図。素人を多用したあまりに自然な演技…。キアロスタミ監督の手法は多くの映画人に影響を与えている。

ショーレさんはその初期作品が、今上映されることに意味があると言う。

「コロナ禍で、活動する世界がどんどん狭くなって、みんないつの間にかとっても息苦しくて、心をやられています。キアロスタミはものすごくシンプルに人やモノを描くから、癒やし効果があります。日常がどんどん複雑になって、刺激の強いアクションやゴチャゴチャの話は見たくない、という人にはフィットすると思います。好きなものを押しつけるのではなく、嫌いなものをそぎ取っていく手法。誰もが共感できるキャラクターだから、映画館を出た後でも、それぞれの人の中で物語は進行する。印象的なセリフを何度も思い出すはずです」

78年のイラン革命以降、検閲が行われるようになり、多くの映画監督が国を出たが、キアロスタミは残った。

「革命以来、裸やラブシーンはもちろん、普通のボディータッチも禁じられました。それでも『その土地に生えた木は移し替えても同じように実がなるとは限らない』と、自分の生まれた土地にこだわったんですね。彼の作品はすべて自分の体験がもとになっています。だから、家の中では当然家族の髪もなでるし、触らないなんてあり得ない。でも、それを描くことはかなわない。そこで、彼はカメラを屋外に持ち出した。題材をどんどん田舎の方に広げた。そこなら『現実』を撮ることが出来たんです」

作風は小津安二郎監督の影響を受けたと言われた。

「実はほとんど意識していなかったんです。日本で指摘されてから、小津作品を見るようになって、ああ、これは似てるな、と。そもそもミニマリストですから、小津さんの『日本的なもの』には共通点が少なくない。手法もカメラ位置はここしかないというこだわりがあり、俳優は素人を使うから、スタートもカットもカメラマンの耳にささやくように言う。演じている方はいつ始まっていつ終わったかわからないから、自然に生き生きとするんですね。プロの役者が入っても、素人に合わせるために変な抑揚は付けられなくなる。だからキアロスタミ作品ではプロの演技も自然なんですよ」

73年のデビュー以来、自分流を貫いたキアロスタミ監督だが、決して自信満々というわけではなかった。

「撮影現場では自信満々に見えますが、一歩離れると、私たちに『今のどうだった?』としきりに聞きました。いつも不安そうで、とってもナイーブでした。イランでは黒澤明作品がたびたびテレビ放送されていて、それはもう『天皇』なんですね。だから、(93年に)黒澤監督の成城のお宅にうかがったときはたいへんでした。キアロスタミは校長先生の前に出た子どものように緊張していました。自分の作品をほめられた時は本当にうれしそうで、あれがその後の自信につながったと思います」

「桜桃の味」でカンヌ映画祭最高賞のパルムドールに輝いたのは、この対面の4年後だった。

5、6歳の頃に日本の昔話に興味を持ったというショーレさんは40年前に初来日して以来、両国を行き来して文化交流の懸け橋となってきた。昨年には旭日双光章を受章している。

「私は『昭和の人間』です。テヘランの三井物産でアルバイトをしていた頃から流行歌を口ずさみ、日本では豆腐屋さんのラッパを聞きました。『お・も・て・な・し』が上っ面なのは分かっているけど、根がすっごく優しいのも分かっています。モノや人への感謝の姿勢も尊敬しています。ただ、規制は多いですね。『ライク・サムワン・イン・ラブ』を日本で撮った時、キアロスタミがイライラを募らせてとても嫌な人になったくらい(笑い)」

【相原斎】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「映画な生活」)

◆アッバス・キアロスタミ 1940~2016年。テヘラン大卒後、70年短編「パンと裏通り」で監督デビュー。「友だちのうちはどこ?」「そして人生はつづく」「オリーブの林をぬけて」(87~94年)の3部作で評価を確立する。99年の「風が吹くまま」でベネチア映画祭審査員特別大賞。10年にはジュリエット・ピノシュを主演に迎えた「トスカーナの贋作」を発表した。

アッバス・キアロスタミ監督 Abbas Kiarostami by Hamideh Razavi
アッバス・キアロスタミ監督 Abbas Kiarostami by Hamideh Razavi