今年初めに失語症によって俳優引退を表明したブルース・ウィリス氏が、自身のデジタル肖像権をディープフェイク映像制作企業ディープケーキに売却したとの報道を巡り、代理人が否定する騒動となっています。ことの発端は、英テレグラフ紙が、ウィリス氏のデジタルツインが過去に出演したロシアの携帯電話会社の広告を制作したディープケーキに、将来の映画や広告にデジタルツインを出演させる権利を売却したと報じたことでした。しかし、その数日後に代理人が米ハリウッド・レポーター誌に「ディープケーキとはパートナーシップや契約を結んだことはない」とコメントを発表して報道を全面否定しました。

デジタルツインとは、「デジタル双子」という言葉通り、現実世界の「リアル」空間から収集した情報を使い、仮想空間上に双子のようにリアル空間を再現することを意味します。ウィリス氏が昨年出演したテレビCMは、体形が似た別の俳優が演じた役に映画「ダイ・ハード」(1988年)と「フィフス・エレメント」(1997年)の映像を用いて作成した顔を置き換えたものでした。つまり、この技術を使えば自ら演じることが必要な映画やテレビCMに病のために出演ができなくなっても、デジタルツインが本人に代わって新たな作品に永遠に出演し続けることが事実上可能となるわけです。こうした技術を用いた作品としては、映画「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」(16年)やディズニー+のドラマ「ボバ・フェット」が有名です。「ローグ・ワン」は、同シリーズでレイア姫を演じていた女優キャリー・フィッシャーさんが前作の撮影後に急死したことを受けデジタル出演させることで作品を完成させることができました。また、「ボバ・フェット」では、若き日のルーク・スカイウォーカーを演じたマーク・ハミルが登場してファンを歓喜させています。

「ディープラーニング(AIの深層学習)」と「フェイク(偽物)」を組み合わせた造語である「ディープフェイク」の技術は年々高度化しており、素人では本物なのか合成なのか見分けることが難しいレベルになっていると言われています。最近は画像や動画のみならず、音声もディープフェイクすることが可能となっており、映画やゲームなどの世界でも使われるようになっています。トム・クルーズのディープフェイク動画がSNSで人気になるなど簡単に動画が作れるアプリも誕生しているので、ネットで様々なディープフェイク動画を目にする機会も増えています。フォトショップなどの画像合成とは違い、AIによって本人が話しているのとまるで区別がつかない違和感のない動画を制作することが可能なため、「ローグ・ワン」では1994年に亡くなったグランド・モフ・ウィルハフ・ターキン役のピーター・カッシングさんが実際に演じているようなシーンも登場しています。同シリーズを制作するルーカスフィルムが、ディープフェイクを用いて映画やドラマの主人公を別の人物に入れ替えた映像を制作する人気ユーチューバーを雇用したことでも話題になりましたが、今後はこうした技術が映画制作の現場で増えてくることが予想されます。

ウィリス氏は、ディープケーキが制作したデジタルツインについて、同社の公式サイトで以下のようなコメントを寄せています。「自分のデジタルツインの精度が気に入っている。時間を遡る絶好の機会です。私が別の場所にいる時でさえ、デジタルツインが仕事をし、撮影に参加することができる。これは非常に新しく、興味深い体験」。この言葉通り、どこにいても、例え自分の死後でもデジタルツインを自身の代わりに働かせることができれば、映画やドラマ、広告の世界は大きく変わります。しかも、ディープケーキは30歳以上若いウィリスさんが34歳の時に出演した「ダイ・ハード」の映像を使っており、年齢や時代も自由自在に選ぶことができるのです。

ウィリス氏のデジタル肖像権売却報道が仮に事実だったら、ハリウッドで初めてディープフェイク企業にデジタルツインの制作権利を売却したスターになるはずでしたが、ディープフェイク技術を使うことには賛否両論あります。ネット上では、マコーレー・カルキン主演の映画「ホーム・アローン」のパロディーとしてカルキンをシルベスター・スタローンに置き換えた「ホーム・スタローン」という動画などユニークなディープフェイク動画が多く投稿されていますが、悪意を持って利用すれば著名人に不適切な振舞いや発言をさせる動画を制作して拡散することもできてしまいます。ディープフェイクポルノという言葉もあるように、人気スターがアダルトビデオにあたかも出演しているような映像を制作することも可能です。一方でメリットとしては、フィッシャーさんのケースのように撮影中に亡くなった場合や急病で出演ができなくなった際に代役を立てて撮り直したり、脚本を修正することなく、デジタルツインを使って撮影を乗り切れることが可能になります。しかし、ディープフェイク技術を使わずとも、今ハリウッドで主流となっている現実の人物や物体の動きをデジタル的に記録する最新のモーションキャプチャー技術でリアルなCG映像を作ることができるため、ハリウッドがディープフェイクの全面導入へと傾くことは今のところ当面はないと見られています。しかし、デジタルツインの契約が現実となれば、今は亡きスターたちが現代の作品に出演することなども可能となるため、エンターテイメントの世界が大きく変わる可能性があり、ハリウッドで論争が巻き起こることでしょう。

【千歳香奈子】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「ハリウッド直送便」)