今年に入って、2人の落語家が亡くなりました。柳家小蝠(やなぎや・こふく)さんが1月12日に42歳で、古今亭志ん駒(ここんてい・しんこま)さんは同18日に81歳でした。

 小蝠さんは突然の訃報でした。元日から5日まで上野広小路亭の初席に出演していましたが、7日の高座をインフルエンザで休演。自宅で休んでいましたが、9日になって意識が混濁し、都内の病院に救急搬送されて、そのまま亡くなったのです。

 野球の名門である群馬・桐生第一を卒業後、94年に立川談志に入門。前座名は「志っ平」でした。しかし、2000年に問題が起こりました。談志が家元の落語立川流では当時、上納金制度があったが、小蝠さんは払っていなかった。それに気づいた家元は激怒。「今月から上納金は倍の月2万円。払っていなかった分は3倍にして払え。払えなかったら破門だ」と言いだしました。小蝠さんは200万円を払わなければいけない状況になりましたが、お金を工面できず破門に。01年に落語芸術協会の会長だった10代目桂文治門下に入り、前助と改名しました。それまで7年のキャリアがありましたが、文治師は「一からやらせる」と前座スタートとなりました。

 04年に文治師匠が亡くなると、兄弟子の2代目柳家蝠丸の預かり弟子となり、05年に二つ目に昇進し、小蝠を名乗りました。14年に小蝠のままで真打に昇進。通常は13~14年で真打ちとなりますが、小蝠さんはかなり遠回りしました。

 志ん駒さんは海上自衛隊を経て、63年に5代目古今亭志ん生に入門しました。当時の志ん生は脳出血で倒れた直後で、体も不自由だったため、志ん駒さんは身の回りの世話を献身的に務めました。73年に亡くなると、志ん生の長男金原亭馬生門下に移り、76年に真打ちに昇進しました。しかし、78年の三遊亭円生らが落語協会から脱退し、落語三遊協会を立ち上げた時、古今亭志ん朝とともに移籍したものの、寄席に出られないことになったため、落語協会に復帰しました。その時、師匠馬生に逆らった形となったため、志ん朝門下に移りました。

 志ん駒さんと言えば、「ヨイショ」という言葉が浮かびます。「志ん生最後の弟子 ヨイショ志ん駒一代」という著書があるほどで、「ヨイショはされる人の身になって」がモットーでした。高座では、志ん朝がオーナー、志ん駒さんが監督を務めた草野球チーム「ヨイショーズ」はご祝儀をもらうと大逆転負けしていたと、よく話していました。高座だけでなく、時代劇ドラマ「大江戸捜査網」でかわら版売りの早耳金太役でレギュラー出演していました。落語協会では理事を務めていましたが、10年の正月初席を最後に高座に上がることなく、休業状態でした。

 1月はお客さんもたくさん入って、寄席がもっとも盛り上がる月ですが、大ベテランと中堅の2人の訃報は、そんな楽屋に悲しい知らせとなりました。【林尚之】

古今亭志ん駒さん
古今亭志ん駒さん