47年前に浅利慶太さんの演出作品を初めて見た。劇団四季「オンディーヌ」。水の精オンディーヌと騎士ハンスの恋を描いたフランスの劇作家ジロドゥの詩劇で、高校生だった記者はせりふの美しさに感動した。帰りの北海道の雪道にも心は温かかった。7年後、記者になって、浅利さん演出のミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」を見た。十字架のイエスが死に向かう姿が刻々と変わる照明の中に浮かび上がる。クリスチャンではないが、涙があふれた。見る度に心震える場面だ。

 以来、浅利さんの演出作品を何本見ただろうか。劇団四季で53年の創立から、4年前に劇団を離れるまでに約130本の作品を演出しているが、79年以降の作品はほとんど欠かさず見ている。ミュージカル「コーラスライン」「キャッツ」「オペラ座の怪人」「エビータ」「ウエストサイド物語」「マンマ・ミーア!」「美女と野獣」「ライオンキング」からオリジナルの「ミュージカル李香蘭」「「夢から醒めた夢」「ユタと不思議な仲間たち」、ストレートプレイでは「アンチゴーヌ」「ハムレット」「エクウス」「鹿鳴館」、ファミリーミュージカル「はだかの王様」まで、期待外れに終わったものはなかった。浅利さんが常々言っていた「観客に感動を与える演劇」という基本が守られた舞台ばかりだった。

 浅利さんは俳優には厳しかった。せりふを明瞭に言うための「母音法」を徹底的に教え込んだ。何を言っているか分からない舞台もよくあるが、四季の舞台では絶対にそういうことはない。だから、「もとしき」と言われる四季を退団した市村正親、鹿賀丈史、山口祐一郎、石丸幹二、保坂知寿、浜田めぐみらの俳優たちが重宝されるのも、当然のことだった。浅利さんは四季を退団した俳優たちについて「去る者は追わず」と冷たい一面もあったが、根は育ちのいい「演劇青年」だから、時とともに、わだかまりも解消した。亡くなった後の市村や鹿賀の涙が物語っている。

 営業や制作の社員にも厳しかった。激しい叱責の声を上げることもしばしばで、そのために辞めていく人たちも多かった。しかし、叱責し、しばらく仕事を干したとしても、個々の仕事への意欲を見極めて、必ず救いの手を差し伸べた。今の社長以下、四季の幹部はほとんどがそういう経験を経ている。浅利さんは強力なリーダーシップと包容力があった。薫陶を受けて、退団後も活躍する演劇関係者は数多い。劇団四季は人材の宝庫だった。

 中曽根康弘元首相のブレーンになるなど、政財界との人脈の広さから、毀誉褒貶(きよほうへん)が多かったが、それは演劇の裾野を広げるための手段でもあった。昔の演劇状況は東京に1極集中し、観劇する人も限られていた。そこで浅利さんは日生劇場で小学生を無料招待して子どもミュージカル公演を行い、北海道から沖縄まで全国各地を巡演した。それは大手企業の協賛があってこそ実現した。東京以外にも大阪、名古屋、札幌、福岡に専用劇場を建設し、高騰するチケット代も1万円内に抑える企業努力もしていた。

 私的なことだが、結婚が決まった時、2人で自宅に招待されて料理をごちそうになった。その後、浅利さんと会うと、「奥さんは元気か」と聞かれた。30年間もそのやりとりは続いた。しかし、今年4月の「李香蘭」を見に行った時、いつもの握手はしたものの、耳慣れた言葉はなかった。老いを初めて感じた瞬間だった。

 演劇記者になって40年、取材の中で寺山修司さん、つかこうへいさん、蜷川幸雄さん、浅利慶太さんは特別な存在だった(同世代の野田秀樹は除く)。つかさん、蜷川さんが亡くなった時、事前に悼む文章は頭の中で用意していた。病状が悪いと聞いていたからだ。しかし、浅利さんは100歳まで生きると思っていたから、準備はしていなかった。浅利さん最後の演出作「李香蘭」には、戦争で亡くなった兵士たちが登場する。映像で海辺に横たわる無数の若き兵士たちの姿や艦砲射撃の中で落下していく特攻機に、涙で顔がいつもぐちょぐちょになった。浅利さんの「こんな戦争は2度と起こしてはならない」というメッセージが込められている。亡くなった7月13日は、65回目となる劇団四季創立記念日7月14日の1日前。4年前に劇団を去ったけれど、20歳で旗揚げした劇団四季を最後まで愛していた。【林尚之】