講談師として初めて人間国宝になった一龍斎貞水(いちりゅうさい・ていすい)さんが肺炎のため亡くなった。81歳だった。

東京・湯島に生まれ育った。今も湯島天神に続く階段下の家に住み、奥さんが居酒屋「酒席 太郎」を営んでいた。11月25日の最後の高座も、月1回続けていた湯島天神の参集殿を会場に自ら主催していた「連続講談の会」で、前座時代に盛んに高座にかけていた「金毘羅利生記」を熱演した。その2日後に容態が悪化し、救急車で都内の病院に搬送され、12月3日に息を引き取った。

数年前から肺がんの治療を続け、入退院を繰り返しながら、高座に出演していた。今年もコロナ禍で4月から6月は「連続講談の会」を休んだが、7月から再開し、12月7日にも務める予定だった。

貞水さんが講談界に入ったのは1955年、16歳の時だった。もともと役者志望だったけれど、唯一の講釈場だった本牧亭に出入りし、たまたま高座に上がって好評だったことから、講談の世界に飛び込んだ。当時はすでに講談界は低迷期に入っていて、前座時代には本牧亭で観客が10人以下という日も珍しくなく、貞水さんも「おれたちが一人前になった時、客はどうなっているんだろう」と不安だったという。66年に真打ち昇進と同時に6代目貞水を襲名。照明や音響などの特殊効果を生かした「立体怪談」で人気を集め、「怪談の貞水」とも言われるようになった。02年には講談界で初めて人間国宝になり、講談協会の会長を務めるなど、講談界の苦しい時期を中心となって支えてきた。

そんな講談界も、神田伯山の登場でブームとなり、19年には神田松鯉が講談界で2人目の人間国宝になるなど、復活の兆しが見始めていた。貞水さんの座右の銘は「偉大なる未完成で終わりたい」。今はない本牧亭にあった、先人たちが慣れ親しんだ釈台を大切に保管していた。65年におよぶ長い講談師人生に幕を下ろし、講談界の隆盛を次の世代に託して、天国に旅立った。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)