人間国宝で、文化功労者の歌舞伎俳優中村吉右衛門さんが亡くなった。77歳だった。4歳で初舞台を踏み、70年以上も舞台に立ち続けた。

父は8代目松本幸四郎で、母は初代吉右衛門の一人娘の正子さん。跡取りの男子がいなかった初代に結婚を認めてもらうため、正子さんは「男の子を2人生みます。1人を実家に養子にして吉右衛門を継がせます」と宣言したという。

その言葉通り、長男は市川染五郎から松本幸四郎を経て、現在の松本白鸚となり、次男が4歳で祖父でもある初代の養子となった吉右衛門さんだった。生まれる前からの宿命だった。吉右衛門さんに昔の話を聞くと、よく出てくるのが「ばあや」だった。子供の時、忙しかった実母正子さんの代わりに面倒を見てくれたお手伝いさんで、「育ての母親です」と言っていた。 幼い吉右衛門さんをおぶって路面電車に乗っていた時、電車のブレーキが利かず、止まっていた別の電車と衝突。ばあやは、背中の吉右衛門さんをかばってうつ伏せに倒れ、左右の鎖骨を折りながらも守ったという。

勉強に身が入らなかった高校3年の時の父兄面接に、両親の代わりに出かけたばあやに「先生から『こんな調子で大学に行かせるつもりか』と言われた」と泣かれると、吉右衛門さんは一念発起して勉強に励み、早大仏文科に合格した。

献身的に尽くしてくれたばあやも、吉右衛門さんが21歳の時に亡くなった。当時は役者として生きていくことに悩んでいた時期で、父の幸四郎に「役者をやめたい」と言ったこともあったという。しかし「いい役者になって。吉右衛門になって」と言い続けたばあやの死をきっかけに、吉右衛門の名を継いで、芸に精進することを決意。2代目襲名はその1年後だった。

吉右衛門さんは「初代に比べると、私なぞはまだまだ」と謙虚に話すことが多かったけれど、初代の舞台を見たことのない者にとって、吉右衛門と言えば、2代目のこと。「俊寛」の俊寛、「熊谷陣屋」の熊谷直実、「一條大蔵譚」の大蔵卿、「石切梶原」の梶原平三、「仮名手本忠臣蔵」の大星由良助、「河内山」の河内山など数々の舞台が、目に焼き付いている。

ばあやが望んだ通り、「いい役者に」になった吉右衛門さん。今頃、2人は56年ぶりの再会を果たしたのだろうか。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)