シニカルで皮肉屋なのに正直で素直。とっつきにくいのに、根は優しい。

 今月2日に亡くなった昭和フォーク界を代表する歌手、はしだのりひこさん(享年72)を知る人のおおよそ、一致した意見がこうだった。

 今月5日、6日に通夜、葬儀が行われ、高校時代から50年近くのつきあいになる元マネジャー、田所資裕さん(65)は「根っこは優しかったけど、外に出すもんは激しかった」と話した。田所さんは、つねに、はしださんから叱咤(しった)激励されてきた。

 「腹が立つことがあって、『こいつ、アホや』と愚痴を言うと、『人間はみな、アホやねん。お前ががんばれ』と諭されたというか…。言葉としては、きつい言葉なんですけど、内実は、すごくこちら側の気持ちを分かってくれていた」

 はしださんの不器用な表現法は、誤解もされた。「最初、初対面のときは絶対に、様子見するんですよね」と田所さんは言う。

 実際、そうだった。10年以上前、企画の取材を申し込むと、京都の自宅に招かれた。あいさつをして、さあ取材を-と思った瞬間、「どこまで分かっているのか」と言われた。

 そう「知っている」ではなく「分かっている」か。付け焼き刃で勉強してきた分量ではなく、その事前準備の情報から「何を感じたか」を試していたようだった。その時間、実に30分以上。取材に入るまでに、それだけかかった。

 ただし、話し始めると、愛嬌(あいきょう)もたっぷりに、昔話まで、おもしろ、おかしくしゃべってくれた。結果、昼すぎに伺い、退散したのは夕方だった。初対面ながら長時間、はるか年下の記者のために時間を使い、丁寧に話してくれた。途中、お菓子、お茶をいただきながら…。

 「とっつきにくい人」が、おおよそ4時間後には「気さくで、おもしろいな人」になっていた。

 通夜で、弔辞を「近所代表」として読んだ任天堂の宮本茂代表取締役フェロー(65)は「地蔵盆とか地域の集まりで、歌ってくれとせがむと、ギターを持って生歌を聴かせてくれた」と振り返った。

 優しい人。だが、本業の音楽には厳しく、言葉を濁さない人だった。宮本氏が歌の上達法を聞くと「下手なやつは、うまくならん」とバッサリ。また、学校の音楽室を使って、はしださんの指導で、歌の練習をしたことがあったそうで、その時の顔は「ものすごい怖い。厳しい。むちゃくちゃ言われた」とも明かした。

 ダメなものはダメ-自分にもウソをつかない人。闘争心も旺盛で、町内対抗の運動会でも負けることを嫌っていたという。20年前から患っていたパーキンソン病に加え、今年5月に急性骨髄性白血病を患ったときもそうだった。

 医師からは「症状の緩和ケア」を勧められたが、はしださんは「わしは闘う」と譲らず、抗がん剤治療を受けた。結果、白血病の症状は消えたものの、パーキンソン病は悪化。秋ごろには食事をとることもままならなくなっていた。

 長男、長女によれば、じょじょに運動機能を失い、11月に入ると、手を握り返すぐらいしかできなくなっていた。だが、そんな状況で、亡くなる10日前、高校時代のバンド仲間がギターを手に見舞いに訪れると、ベッドから体を起こして「ギターを貸せ」と言い、弦を奏でたそうだ。

 告別式の喪主あいさつで長男が「僕はその場でいなかったんですけど、ほんとに音出したんですかね。のみ込む機能も低下して、食事も食べられなかったのに」と驚くほどの奇跡だった。負けん気魂は衰えを知らず、最後まで自分を貫いたはしださん。かっこよすぎる別れだった。

【村上久美子】(ニッカンスポーツ・コム/コラム「ナニワのベテラン走る~ミナミヘキタヘ」)