吉本新喜劇の全盛期を支えた花紀京(はなき・きょう)さん(本名・石田京三=いしだ・きょうぞう)が5日午後7時44分、肺炎のため大阪市内の病院で死去した。78歳だった。6日夜に大阪市内で家族と近親者のみで通夜が行われた。吉本新喜劇の座長を務め、喜劇俳優として「てなもんや三度笠」などのコメディーやドラマにも出演した。03年から長期療養中だった。

 花紀さんが闘病13年で力尽きた。01年にダウンタウンらとユニット「Re:Japan」を組み、シングル「明日があるさ」のヒットでNHK紅白歌合戦にも出場。ところが02年8月に脳腫瘍の摘出手術を受け、休養中だった03年5月、大阪市内の自宅で入浴中に低酸素脳症で倒れた。

 所属事務所によると、病室に出演ポスターを貼り、新喜劇映像を流すなど、過ごしやすい環境が整えられていた。しかし3日ほど前から呼吸が荒くなり、5日に容体が急変。夫人にみとられて息を引き取った。

 通夜に参列した間寛平(66)は年数回、見舞いで訪ね、今年に入ってからの様子を「(自分の)嫁が『兄さん来たで~』と言うと、ピクッとしてね。復帰を願ってた。もう1回芝居を見たかった」と話した。

 付き人を務めていたころの花紀さんは「怖かった。芝居は『間』やと何度も怒られた」。それでも、テレビ収録のない公演では「俺の役やってみるか」と、実戦経験を積ませてくれる優しさもあったという。

 花紀さんの父は上方漫才の祖「横山エンタツ・花菱アチャコ」のエンタツさん。58年に花登筐氏に師事。62年に吉本興業に入り、63年に吉本新喜劇座長に就いた。岡八郎さん(後に八朗に改名)や原哲男さんらと新喜劇の一時代を担った。

 ニット帽、ニッカーボッカーに腹巻き姿の「京やん」は当たり役。目の下にクマを作り、鼻を真っ赤にして、泥棒や土木作業員を演じるのが定番だった。大阪では当時、藤山寛美さんの松竹新喜劇も全盛期。松竹は芝居で笑わせ、吉本はギャグが多いとされたが、花紀さんは「芝居の筋で笑わせる」を身上とした。

 食事後の場面で「腹減ったあ~」、工事現場ではまったく働かず「さあ、休もか」など、あくまでも流れの中で笑わせる技術、間合いは天才的で、ボケ、つっこみ両方をこなした。

 テレビでは「スチャラカ社員」「てなもんや三度笠」などで真価を発揮。89年の新喜劇退団後は外部演劇に出演し、98年NHK連続テレビ小説「やんちゃくれ」では正体不明の“大阪のボス”を好演した。

 ギャグに走る後輩に「芝居を壊す」と苦言も口にし、弟子へのしつけの厳しさで知られた。当時を知る座員は「鉄拳もあったが、愛情があったから、ついていった」と振り返った。通夜は、大阪市内で「家族葬」として行われたが、チャーリー浜や内場勝則、桂文枝ら芸人仲間も多数駆けつけた。【村上久美子】

 ◆花紀京(はなき・きょう)1937年(昭12)1月2日、大阪府生まれ。横山エンタツの次男に生まれたが、父の相方花菱アチャコに憧れ、58年に劇作家の花登筐(はなと・こばこ)氏に弟子入り。59年に劇団「笑いの王国」旗揚げに参加。解散後の62年に吉本興業入り。63年に吉本新喜劇座長。「てなもんや三度笠」などテレビにも出演。89年退団後も舞台やテレビ、映画に出演した。