傘の上でまりや升を回す曲芸で知られる海老一染之助さん(本名・村井正親=むらい・まさちか)が6日午前11時31分、肺炎のため東京・杉並区の自宅で死去した。83歳だった。兄の故染太郎さんとのコンビで活躍。正月の演芸番組などでお茶の間の人気者にもなった。染太郎さんが02年に死去してからは、1人で舞台に立っていた。葬儀・告別式の日程は未定。

 染之助さんの自宅マンション付近の住民によると、最近5年ほどは体調を崩していたようで、仕事をしていない様子だったという。2、3年前から車いすで通所介護を利用し、最近1、2年は入退院する生活を送り、療養していた。親族らによると、1週間前に肺炎を患って入院し、6日になって容体が急変した。

 伝統芸能「太神楽(だいかぐら)」の曲芸師として染太郎さんと息ぴったりの兄弟コンビで人気を得た。「おめでとうございま~す!」「いつもより多めに回しておりま~す!」。やせでギョロ目の染太郎さんが軽快な掛け声を上げると、ふくよかな染之助さんが、和傘の上でまりや升などを回す芸で楽しませた。染之助さんがくわえたバチに土瓶を乗せるバランス芸も得意とした。染之助さんは、ほとんど芸を見せない兄に「弟は肉体労働、兄は頭脳労働。これでギャラは同じ」と皮肉まじりのギャグを浴びせて笑わせた。実際にギャラは折半で、染太郎さんが単身で出演したCMの出演料も分け合った。

 落語家の父、寄席の三味線弾きだった母の間に生まれた。戦後、米英の進駐を予測した父に「これからは芸能が大事になる」と勧められ、45年に11歳で2代目海老一海老蔵に染太郎さんと入門。46年から東京・新宿の末広亭などの寄席に出演、染之助さんは芸を、染太郎さんは話術を磨いた。

 伊勢神宮発祥ともいわれる厳かな「太神楽」を、大衆受けするように、まりをサッカーボールに替えるなど時代に合わせて進化させた。オレンジのはかま姿という派手ないでたち、芸の縁起の良さなどから、正月の演芸番組などに欠かせない存在になった。

 海外でも活躍した。来日中の旧ソ連のバレエ団団長に気に入られ、60年にソ連文化省の招きで1カ月に及ぶツアーも成功させた。大劇場公演に合わせた大げさな掛け声や所作が日本国内でもうけた。その後も米ABCテレビ出演や、台湾やブラジル、ハワイなどで公演した。「日本のめでたい正月」のイメージを世界中に印象づけた。

 02年に染太郎さんが胃がんで死去すると「半身が取れたような、すごいショックだった」と心中を明かした。「応援してくれよと兄に話しかけながら舞台に出る」と仕事を続けた。

 兄の死の影響から食生活や散歩など健康面にも気を使うようになった。「染太郎がちょっと天国の方に遊びに行きましたので1人でやらせていただきます」。1人の再出発から15年。兄の元へ旅立った。

 ◆海老一染之助(えびいち・そめのすけ)1934年(昭9)10月1日、東京都生まれ。父は落語家三遊亭円駒。45年9月に落語家の2代目海老一海老蔵に兄弟で入門、46年12月に新宿末広亭で「海老一勝太郎・小福」として初舞台。49年に染之助・染太郎に改名。88年フジテレビ系「笑っていいとも!」にレギュラー出演。89年3月にシングル「おめでとうございます!!」発売。