平成最終日の4月30日、日刊スポーツは1面で、「平成31年間ニッカン1面登場ランキング」を掲載した。90年(平2)入社の私も、数え切れないほど1面記事を書いてきた。初めての1面は、92年秋、歌手桜田淳子が統一教会合同結婚式に参加したことに絡む騒動だった。早版は芸能面、次の版で裏面、最終版で1面になり、ドギマギしたのを覚えている。

社会担当だった95年は、オウム真理教事件で1面を書くことが日常だった。プロ野球の開幕日でも事件に進展があると、最終版1面に「オウム」の活字が躍った。

98年秋からサッカー担当になり、02年W杯日韓共催大会まで一気に駆け抜けた。最大の取材対象、中田英寿はなかなかコメントをしてくれなかったが、周辺取材を重ね、独自情報を出すことを心掛けた。セリエA時代は週末の試合になると、彼が1面を飾った。イタリア出張時はそれが重圧にもなったが、記者として最も成長できた時期だった。特に移籍のニュースをつかむことに燃え、ローマからパルマへの移籍合意をいち早く伝えられた時の達成感は、今も忘れられない。

03年秋~05年秋にかけては、1面でプロゴルファー宮里藍の活躍を書いた。宮里は03年9月、アマチュアだった高3でツアー初優勝。04年ツアー開幕戦でプロ初優勝を果たし、空前の「藍ちゃんフィーバー」を起こした。期待に応え続けたスーパーヒロインだが、重圧で円形脱毛症になり、「ほら、500円玉ぐらいのハゲが」と明かしたこともあった。最も印象的だったコメントは、プロ転向直前のインタビューで「ゴルファーの前に人として人格者でありたい」。彼女は私よりも随分と年下だが、尊敬できる取材対象だった。

06年秋、大相撲担当になって朝青龍に出会った。稽古は不十分でも無敵の横綱だった。日刊スポーツ評論家で元横綱大鵬の納谷幸喜さんから「横綱は誰よりも稽古して、全力士の手本になるべき存在」と教え込まれた私は、朝青龍の言動が納得いかず、幾度となく批判記事を書いた。怒った本人に「俺のことが嫌いだから、そんな風に書くのか」と迫られたこともあった。だが、見て見ぬふりはできなかった。

09年秋、デスクになってからは、1面原稿の構成を記者に指示するようになったが、書き手の気持ちが分かるゆえに、本人の取材に基づく「思い」を大切にしてきた。たくさんの記者、デスクがいる中で、1面に関われることは大変な名誉。締め切り時間に迫られて、喜びに浸る余裕はないが、完成した紙面を手にするとジワリと来る。特にスクープを出せた時は、朝の情報番組で紙面が紹介されるまで眠れなかったりする。

日刊スポーツを含めて多くの新聞がネットファーストになり、私も今はその仕事に携わっているが、52歳になった今でも「1面を書きたい」と思う。ちなみに本日の1面に掲載された「平成サッカー部門1面登場回数1位」の中田氏については、私が書かせてもらった。関係者に会う機会を設けていただき、直接に「1位です」と伝えると、中田氏は「そういういい時代があったということですよ」と笑みを浮かべた。私は、はね返され続けた記者だったが、長い月日を経て救われた気がした。個人的に「いい平成の終わり」になった。【デジタル編集部次長・柳田通斉】