ジャニーズ事務所ジャニー喜多川社長(享年87)の「家族葬」が先ごろ営まれ、多くの所属スターを通してあらためてその功績がクローズアップされている。

00年にジャニー氏の作、演出で初演された「SHOCK」(主演堂本光一)を取材して以来、信頼を得て何度もインタビューを行ってきた江戸川大教授、西条昇氏(大衆芸能史)が、演出家ジャニー喜多川氏の功績と人柄について解説した。

◇  ◇  ◇

◆本場アメリカのエンタメで育った環境

米ロサンゼルス生まれ(1931年)で、物心ついた頃からアメリカのエンタメを見て育ったことが決定的ですよね。当時のアメリカは、ミュージカル映画とミュージカルショー番組の全盛時代。日本の昭和10年代はまだ子供の娯楽は紙芝居という時代ですから、ベースが全然違う。「ミュージカルをやりたい」という生涯の夢の原点となりました。

二枚目と三枚目、どちらもやるというジャニーさんエンタメ感覚もアメリカ仕込みのもの。二枚目歌手のビング・クロスビーがコメディアンのボブ・ホープと組んだコメディー映画「珍道中シリーズ」、ディーン・マーティンがジェリー・ルイスと組んだ「底抜けシリーズ」などのステータスを子どものころから見てきてリスペクトしている。民放から歌番組がなくなってしまったSMAPを「平成のドリフターズにする」と抵抗なくコメディーで売り出し、自分の冠番組を持たせてその中で歌を披露する、というスタイルを作ったことにも表れています。

◆日本の歌謡文化へのリスペクト

アメリカ文化の影響を強く受けているジャニーさんですが、日本の歌謡文化も大好きで造詣が深い。ジャニーさんとお話しさせていただくと、1時間ずっと笠置シヅ子さんや市丸さん、バタやん(田端義夫)の話をしてくれることもありました。少年隊に市丸さんの「三味線ブギ」、KinKi Kidsに笠置さんの「たよりにしてまっせ」、関ジャニ∞に「買い物ブギ」をリメークして歌わせたりというのも、ほかのプロデューサーでは考えられない。最先端からナツメロまで、あらゆる世界の王道エンタメへのリスペクトが貫かれたジャニーさん独特のセンスです。

◆創業当時からブレないミュージカルへの思い

1967年に創刊された初代ジャニーズの会報誌「J&M」は、ジャニーズ&ミュージカルの略。最初から目標はミュージカルなんです。当時ミュージカルはまだ日本では全然知られていない存在。創刊号では、メンバーが本場ブロードウェーで「寝る間もおしんで勉強」してきたことや、「理解して応援してほしい」というあいさつがつづられています。劇団四季が「キャッツ」を日本初演(83年)するはるか前のことです。

「フォーリーブス」も、実はオリジナルミュージカルを精力的に上演しています。当時の会報誌には「いつかどこかで フォーリーブス物語」や、今も若手に継承されている「少年たち」などの舞台写真が掲載されています。まずレコードデビューし、歌番組で歌って踊るという今に続く業態も、ジャニーさんにとってはミュージカルが根付くまでの「3分間のミュージカル」という表現。実際、ウエストサイドストーリー風の振り付けもしています。86年の少年隊「プレゾン」で正統派ミュージカルの流れをつかみ、今のジャニーズミュージカルの数々につながっています。

◆ピンチをチャンスにする力

長くやっていればピンチもありますが、ピンチをチャンスに変える嗅覚もジャニーさんならではだったと思います。郷ひろみさんの移籍やフォーリーブスもそろそろ解散、という70年代後半の苦しい時代も、ジュニアのレッスンをし続けた。そこから出たトシちゃんやマッチが「金八先生」で人気になるとすかさず「たのきんトリオ」と名付けて畳み掛けていく。3カ所の球場での「3球コンサート」は、今のドームツアーの原点になっています。

光GENJIが解散し、SMAPが売れるまでの時代もそうです。SMAPが売れた時はテレビから歌番組が激減した時代でしたが、コントもやってバラエティーで冠番組を持ち、国民的アイドルに育てる戦略で畳み掛けました。結果、アイドル寿命が延び、人気グループをたくさん抱える現在の成功につながっています。

◆完成しない少年っぽさ

ジャニーさんの演出の特徴は、「毎回リニューアルされる」「完成しない」ということ。ディズニーランドと似ているというか、新しいことをやらずにいられない少年っぽさが根底にあるんですよね。ジャニーさんに、「舞台の演出が一番楽しいですか」と聞いたら「ショービジネスは何だって楽しい」「ショーほど素敵な商売はないです」とキラキラと話してくれました。最初からの志を、最後まで貫き通した。数々のジャニーズミュージカルの共通精神「ショー・マスト・ゴー・オン(ショーは続けなければならない)」の力を、人生で証明したのだと思います。