東京オリンピック(五輪)が23日、開幕した。公式記録映画の監督を務める、河瀬直美監督(52)は18年秋の就任後、新型コロナウイルスの感染拡大による大会の1年延期など、激動の日々を見つめ、フィルムに刻み込んできた。大会開催までの道のりだけで、400時間超も撮影し、開幕後は各競技を追いかける河瀬監督に「五輪記録映画を作ること」について尋ねた。最終回は、具体的な作品作りと、開催自体が危ぶまれた激動の日々を撮影する中で、河瀬監督を支えていたものが何かを語る。【取材・構成=村上幸将】

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奈良県出身で、現在も在住している河瀬監督は、6月に大阪・ヤンマースタジアムで行われた東京五輪代表最終選考会兼日本選手権の取材を終えてから、東京入りした。そして東京に軸足を置き、全国各地を飛び回って取材と撮影を続けてきた。

河瀬監督 6月の頭からマンションを借りて、東京に来れば何日間かは滞在する形を取ってきました。長居で陸上の競技会があって、代表が決まったのを最後に関西を離れ、東京に来て。(大会前は)味の素ナショナルトレーニングセンターで、朝はバスケットボールの3人制、昼からは5人制、体操に柔道…文字どおり“祭り状態”で、東京五輪に向けて最終調整する各競技の選手を取材しました。メディアは全てシャットアウトされていますけど、私もスタッフたちも、みんなワクチンを受けて取材しています。東京だけじゃなく、福島県営あづま球場に関わる人たちを取材させてもらった。群馬県前橋市が、南スーダンのホストタウンを一生懸命やっているので通ったり、沖縄に空手の形男子の喜友名諒選手の取材に行ったり…本当に、東奔西走していました。もう自分が今、どこで起きてるのかも分からない(笑い)

一方で、無観客開催の決定をはじめ連日、さまざまな出来事が発生し、ニュースも飛び交った。どのように追いかけたのだろうか。

河瀬監督 東京五輪関連のニュースは、スタッフの中で全部、情報を管理しているチームがいるんですけど、そのチームが日々、入ってくる素材を構成表の中に全部、入れ込んで大体の起承転結みたいなものを捉えている、というような形で、私たち全員を共有しています。私は総監督ですけど、それ以外に15人ほどのディレクターがいまして、まとめてもらったニュースの中から、各ディレクターたちの持っているトピックにはまるニュースがあれば注視し、取材のアンテナを広げていくやり方をしています。1週間の間に、それぞれのディレクターが撮ったものを全部、共有する時間を4、5時間、持つんです。その中から次の1週間で何を捉えていくか、やっていきます。取材を申請している技術者は100人強ですね。カメラそのものは30~40台。小さいのを入れると50台くらい。そのくらいの数が回っています。

多忙を超えて、過酷とも言える日々…その中、支えになっているものがある。

選手たちが思いっきり汗をかきながら、いきいきとメダルを取るんだ、みたいな感じでやっている姿を見ると、心が揺さぶられる、前に心が向いていくような活力があります。外(競技以外)では、本当にいろいろなことがあったにしろ、毎日、毎日、1つ1つの取材で選手たちから、すごいパワーをもらいました。

大会が始まり、メダリストも誕生している。その口からは、一時は危ぶまれながらも多くの人々の尽力で東京五輪が開催されたから、メダリストになることが出来たという感謝の言葉も聞かれる。河瀬監督は、具体的に、どういう作品を目指しているのだろうか。

河瀬監督 おおまかなもの(ビジョン)はありますよ。もちろん、時系列で言えばコロナが起こりました、いろいろな(社会の)分断がありましたが、こういうふうに開催し、競技をこんな切り口で追い、そして閉会式…みたいな感じではあるんですけど、そんなのは全然、面白くない。例えば、(64年東京五輪公式記録映画監督の)市川崑さんは最初、バーンッと太陽から始まっていますよね。大きな夕日を背負ってランナーが走っている、というショットの力、ビジュアルとして印象的なものを幾つか入れていくという風にはなると思いますけど。とにかく今は見せられないような、言えないようなことは結構ある。期待していてください。

連日、各競技で日本の選手が健闘し、メダリストも誕生している。河瀬監督は、選手の姿と感動の瞬間…そして、それらを支える人々をフィルムに刻み続ける。「50年、100年先になった時、人類がこういう決断をしたということを入れ込んだ作品になれば」という、思いを込めて…。