「タネも仕掛けもちょとアルヨ」の名調子で知られ、上方演芸の殿堂入りが決まったマジシャン・ゼンジー北京(81)が9日、大阪市内の大阪府公館で表彰式に出席。晴れの舞台で「今後もう手品はやりません!」と宣言した。

額面通りなら立派な「引退表明」だが、どうやらそうとも言い切れない。昨年来のコロナ禍で舞台、寄席の仕事がほぼなくなった。舞台も2年以上遠ざかっている。「もう40年から(芸を)やってきた。80歳にもなったし。こら、ええ機会や、引退したろ」と決めたそうで、手品の道具も「大きなものは捨てた」と明かした。

しかし、とても「引退」する風情ではない。やや耳は遠くなったが、声に張りはあるし、血色もいい。67歳だった07年に心筋梗塞で倒れて生死の境をさまよったが、以降は酒、たばこを控えて健康を気づかい、現在は毎朝4時起き、5時から朝食、雨の日以外は連日6時から8~10キロのウオーキングが日課だ。

今後「ボランティアや慰問をしたい」と言い、働くことには積極的。また「年に1度とか、舞台の依頼があれば?」と問われると「う~ん…そらあるかもしれませんな。しかし、プロやから失敗せんように家で練習せんと…」。つまり“復帰”も十分ありそうだ。

この日の表彰式では「奇術+話芸」の芸風がどうやって誕生したかを、軽妙な口調で振り返った。師匠のゼンジー中村さんに弟子入りしたのは、20歳前。当時、マジックはしゃべらんとBGMを流し、黙々とやるのが主流だった。

「最初は普通にやっとったんですが、それじゃ周りと変わらん、お金もぎょうさんもらわれへん。しゃべる人が誰もおらんかったからね」と決断した。

チャイナ服に片言日本語という怪しいスタイルは、苦肉の策だった。

「うまくしゃべれんから、ごまかそうと思って出て来たんが、片言の日本語。口から出任せばっかりやったけど、お客さんが喜んでくれましてね。ほんで片言やし、中国の服も着て。そうなったら間違ってもどうってことないと、全部ギャグにしてました」

出身地が広島ということに引っかけたギャグ「私、中国(地方)の広島生まれ」も、そんな流れから生まれたという。

「上方演芸の殿堂入り」はこれまで落語、漫才、浪曲、講談などジャンルばかりで、奇術は初めて。ゼンジーは「びっくりです。ありがたいこと」。パイオニアとして評価されたことがうれしそうだ。片言の日本語をしゃべり、わざとか、失敗したのか判別不能なギリギリの線で手品のネタをばらし続け、最後の最後に本格的なネタで客席をけむに巻く。「お客さんと遊びながら、やる。お客さんはタネ明かしだけじゃ満足せんから、最後に裏をかいて、ちょっと不思議に思わせる」-。

そんな希代のお笑いマジシャンの“引退宣言”だから、とても額面通りには受け止められそうもない。【加藤裕一】