歌手で俳優の西郷輝彦さん(本名・今川盛揮=いまがわ・せいき)さんの訃報を受け、御三家の1人の舟木一夫(77)が22日、取材に応じた。

栃木・宇都宮市文化会館でのコンサート前に、西郷さんへの思いをひと言ひと言絞り出すように、時には涙声で話した。

 

-訃報をお聞きになったのは

昨日、プライベートな出先で、事務所からの連絡で知りました。実は、夕べは4時ごろまで寝られなくて。彼の顔が出て来て、彼とのことをいろいろ思いだそうとするんだけど、ピントがぼけちゃって、それが今も続いているというか。だから言ってみれば悲しいとか寂しいとかいう感情ではなくて、体の中から何か1つスッと持っていかれたような。それが何なのか僕にも分からないですけど、その感じが今でも続いています。

-西郷さんの悲報に向き合いたくないというお気持ちですか

いや、向き合おうとするんですけど、そうなんだってのみ込もうとするですけど…。今日もいつもより新聞を多く買ってもらって記事も読んだんですけど、もう会えないという実感がないんです。

-西郷さんと最後にお会いになったのは

確か19年に(西郷さんのデビュー)55年をやるというので、ご本人と事務所から連絡あった。「手伝って」という話で、喜んでとご本人とも話をして。その前に前立腺のがんが再発したというのをメディアで知って、輝さん(西郷さんの愛称)に「あまりうれしくないうわさを耳にしたんだけど、どうなの」という話をしたら「そうなんだ」って。とりあえず55年に向かって行こうよって話した。それがコロナ禍で飛んでしまって。再度、次の年にやり直そうということなったんだけど、それもまたコロナ禍で飛んでしまって。彼は大変悔しがっていたというか残念がっていた。

-連絡は取り合っていたのですか

この丸々2年ぐらいは、だいたい2カ月か3カ月に1回は電話で話をしてたんですよ。それで、どちらからともなく、そういえば2人っきりでめし食ったことないねとなって。それで一昨年の12月ですから、14カ月ぐらい前ですか。2人だけでめし食おう、仕事の話抜きでということになって、赤坂で中華を食べながら、1時間半から2時間ぐらいだったと思う。お互いに青春時代はああだったけど、あの時そっちはどう思っていたのみたいな、男の子同士の話をした。お互い異口同音に言ったのは、時間がたってみると、俺たちはライバルじゃなかったねって。これには輝さんと僕とで笑った。そうなんだね、何十年もたって考えてみたら、ライバルじゃなくて、先輩たちに負けないように若手が頑張ろうとやっていた。若手の固まり、僕と輝さんだけじゃなくて、若手が業界とお客さんに向かって突進していたんだね。もうひと言余計なことを言ってしまえば、いい意味でけんかをしていたんだね。若手の一塊が業界とお客さんに向かって「俺たちはここにいるぞ」って。

-西郷さんはどんな歌手、俳優でしたか

西郷輝彦という人は1人しかいない。西郷輝彦というシンガーであり俳優だった。それ以外に何もいらないと思う。

-ご病気のことは

ご飯を食べてからしばらく(連絡が)途絶えたので、4月か5月に僕の方から電話した。いきなり彼、笑いだしてオーストラリアにいるんだよって。何それって言ったら、ご存じのように、そのこと(前立腺がんの治療)でこっちに来ているんだって。きっと勝って、8月半ばぐらいに帰れるからって。病気治して帰るから、その時は必ず一報入れると。じゃあ待っているよって電話を切った。それで心待ちにしていた電話が8月になっても9月になっても掛かって来なかった。病状を聞いていたので、残念ながらいい方向に解釈できなかった。日本に戻って戦っているなと思って、あえて電話をしなかった。ご家族の思いもおありでしょうし。だから輝さんに会ったのは19年12月の中華を食べた時が最後。最後の電話は知らないでオーストリアに電話した時でした。

-55周年の記念コンサートについては

彼はものすごく悔しがった。ジョークでね、コロナのやろうって言っていました。僕はいいじゃないか、体の目星をつけるのが最初だからって。2年遅れても、ここで55周年やりますでもお客さんは納得してくれるからと言った。

-舟木さんは輝さんと言いますが、西郷さんは舟木さんのことをどう呼んでいたのですか

ねえとか、ちょっととか(笑い)。彼は芸能界の人ですから。1日違っても先輩後輩。彼は律義にきちっとする人だった。僕の方は西郷君という呼び方は水くさくてできなかったですね。若いころから輝さんって言っていました。

-御三家時代の交流はどうでしたか

第三者から見ればライバルと見えたでしょうし、そういう思いが50%あったのは事実ですが、結局は全員が誰にも負けたくなかったんだよね。その時代だと三橋(美智也)さんもいれば、春日(八郎)さんもいれは、フランク(永井)さん、コロムビア(レコード)には(美空)ひばりさん、お千代(島倉千代子)さんがいらっしゃるんですよ。固有名詞関係なく、僕らの世代が誰にも負けないぞって、それぞれがそう思っていた。正直、御三家の2人に負けたくないと思ったことは1度もない。輝さんも同じ思いだったよね。オレが金メダルだ、という思いで若さで走っていた。広い意味で、輝さんのお客様も僕のお客様も含めて、同じ時代を生きた仲間なんです。

-お声を掛けるとしたら

お疲れさんですね。第三者から見てしのぎを削っていたころがあった人というのは、何十年もたってみると、やっぱり宝物なんだよね(涙声)。かけがえがないんだ。ステージの真ん中に立って1人で歌う気持ちというのは、親兄弟、マネジャーが100年そでで見ていても分からない。これは本当に同じ仕事をした人間にしか分からない。だから、単に悲しいとか悔しいとかというフィールドの中に入らないんです。今日、コンサートやりますけど、今日来てくださったお客さんプラス1という思いで、ベストの歌を歌えたらと思います。

-弔問には

こんなご時世で、どなたもそうしてらっしゃる時期ですから。落ち着いて奥様のお許しが出て、内緒で眠っている場所を教えていただければ、そこに行って「お疲れさま」と言えればいいなと。そうできればと思っています。