NHK BS1で2日、総合で12日深夜にドキュメンタリー「スポーツ×ヒューマン“史上最大の下克上”ヴァンフォーレ甲府の野心」が放送された。22年10月16日のサッカー天皇杯決勝で、当時J2で18位のヴァンフォーレ甲府が、J1で3位のサンフレッチェ広島に、1-1からのPK戦で5-4と競り勝ち、国内3大タイトルを初制覇。その快挙を、地元で取材を続けてきたNHK甲府放送局が制作した番組だ。

素晴らしい番組だったが1点、物足りなさを覚えた。序盤で、2000年(平12)末までの累積赤字が4億3000万円に膨らみ、存続の危機に立たされた甲府の過去が紹介された。「ホントにヤバイ 甲府が消える」とのメイン見出しを付けて報じた、同12月29日付の日刊スポーツ本紙を手に、サポーターが署名活動を行う当時の映像が流れた。スポンサー料を出せない代わりに、ユニホーム30着などを洗濯する“現物支給”でサポートしたクリーニング店店主のインタビューを引っ張りに、数万円の小口からスポンサーを集める施策で県内全域に支援を求め、サポート企業が260社まで増えた結果、クラブが存続しJ1に3度、昇格したことも…。ただ、45分の尺ではやむを得なかったにしろ、再建した中興の祖の名前が出てこなかったことが残念でならなかった。

その人物こそ、存続危機の渦中に社長に就任し、会長を経て20年4月から最高顧問と一般社団ヴァンフォーレスポーツクラブ代表理事を務めた海野一幸さん(77)だ。00年のシーズン終了後、甲府の存続を願う署名が3万通以上集まったことを受けて、翌01年1月25日に主要株主の山梨県、甲府市、韮崎市、地元の山梨日日新聞と山梨放送を中核とする山日YBSグループのトップが話し合い、01年度の存続を決めた。筆頭株主の山日YBSグループから社長を出すことになり、グループで広告を担当する社の責任者だった海野さんに白羽の矢が立った。

ただ、山梨県は追加の財政支援を断り、小瀬競技場(現JIT リサイクルインクスタジアム)の使用料をアマチュアレベル(昼15万円、夜間30万円)に減免するにとどまった。さらに、4者の話し合いで「平均で3000人以上の観客動員」「クラブサポーター5000人以上」「広告収入5000万円以上」の3項目が掲げられた。単なる数値目標ではなく、クリアできなければチームを解散するという厳しいものだった。海野さんが社長に就任したのは、再建のためではなく、むしろ債務超過分の返済のめどを立て、クラブを整理するためだった。

一連の話を、海野さんから聞いたのは、J1昇格2年目の07年に担当記者となり、ホーム戦の度に東京から甲府に通い始めて2カ月くらいたったころだった。小瀬競技場の運営部屋の前を通り掛かると、海野さんから「君、どこの記者だ?」と声をかけられた。自己紹介をすると「ニッカンには『ヤバイ』『消える』って書かれたんだ。当時のこと、教えてやろうか」と、先述の存続の危機に陥った当時の話を語り出した。

海野さんは「僕はクラブを経営するのではなく、たたむために就任した社長だったんだよ」と口にした。その上で「ちょっと、担架を見てくれよ」と促した。視線を送ると、ピッチで倒れた選手を乗せる布地の部分に病院名が印刷されていた。「小口のスポンサーを集めたって言ったろう? ここも広告なんだ。両軍ベンチの屋根にも広告を入れた。どっちも、うちがJリーグで初めてやったんだ」と笑みを浮かべた。現物支給のスポンサーには、クリーニング店だけでなく、選手に昼食などを提供する地元のパン店や、選手を無料で入浴させた温泉施設などもあると例を挙げた上で「大口スポンサー獲得は、山梨では、なかなか難しい。県内全域に支援を求めなければいけないからスポンサーを小口にしたんだ」とも語った。

クラブの整理、精算がタスクだったのに、なぜ、そこまで再建に取り組んだのか? と尋ねた。海野さんは「周りも、精算するための社長だと見ていたよ。でも、それじゃあ悔しいじゃないか。存続のために最善を尽くそうって思ったんだ」と声を大にした。その流れで東京から時折、足を運ぶ程度の記者に、なぜ、こんなに熱心に話してくださったのか? と尋ねると「君は、いつも足、使って取材しているよな。僕は昔、記者だった。熱心に取材する記者は分かる。だから、話したくなったのかもな。良かったら、これからも甲府に来てくれよ」と言い、記者の肩を軽くたたいた。

東京に帰って海野さんの経歴を調べて、驚いた。山梨日日新聞時代は、自民党幹事長、副総裁などを歴任した金丸信氏の番記者として全国に名を知られ、42歳で編集局長を務めた、新聞記者としての“大先輩”だったからだ。その後、取材に行く度に海野さんの動きを目で追うようになった。キックオフ前は、必ずスタジアム正面入り口前に立ち「今日も応援、頼むよ」などとサポーターに声をかけ続け、交流した。その傍らで「がんばれ、ヴァンフォーレ甲府!」と書かれた、のぼりが風で倒れると1つ1つ立て直した。当時、社員が6人しかいない中、300本ほどある、のぼりは海野さんが早朝からスタジアムに行き、自ら立てていると関係者から聞いた。

そうした社長が率いるクラブだけに、選手の地域貢献活動も当時、36あったJリーグのクラブの中で最も多く行っていた。残念ながら、07年は17位でJ2降格が決まったが、同年12月1日にホームで行われた最終戦で、FC東京に0-1で敗れた後、海野さんが「必ず1年で戻ります」とわびても、1万4777人のサポーターはブーイングなどしなかった。頭を下げる海野さんの姿を見ていて、額に汗してサポーター、地域を大切にする社長だからこそ、こうした関係性、スタジアムの空気が出来上がっているんだと感じたことは、今でも忘れられない。

記者は09年冬、異動で芸能記者になりサッカー界から離れた。ただ16年から18年まで、スポーツから芸能、社会ネタまで幅広いジャンルを取材する、ウェブ専任記者の立場になって8年ぶりにサッカー界に戻った際など、海野さんとの関係は続いた。天皇杯優勝直後に祝福のメールを送ると、わずか3年、担当しただけの記者に手厚い感謝と喜びの返信が届いた。

そして、11日に新春のあいさつを兼ねてメールしたところ、電話がかかってきた。海野さんは、アルゼンチンがフランスにPK勝ちしたワールドカップ決勝と、甲府が優勝した天皇杯決勝の、試合を決めた流れの類似点を指摘した。

「うちは、延長後半11分にハンドでPKを与えた(DF)山本英臣が最後、PK戦で決めて優勝しただろう。アルゼンチンも、山本と同じDFの背番号4(ゴンサロ・モンティエル)が延長後半13分にハンドでPKを与えて追いつかれ、その選手が山本と同じようにPK戦の最後のキッカーで決めて優勝…奇遇だよね」

ひとしきり語った海野さんは、クラブの仕事を引退することにしたと告げた。

「元日の誕生日で喜寿を迎えた。存続の危機から始まって22年…天皇杯で優勝して、良いタイミングだと思って始動日(8日)に全員、集まったところで『引退します』と伝えたんだ」

これからは、クラブを純粋に応援していくという。

「山梨県サッカー協会副会長と、日本サッカー協会のアドバイザリーボードは続けるけれど、自由な生活をしようと思う。でも…私の体から、ヴァンフォーレのにおいは消えない。今までのような関わりではないけれど、試合を見に行ったりボランティアはしていくよ。普通じゃ、味わえないことも出来た。最高の人生だった…運が良かったよ」

「スポーツ×ヒューマン」を見たと伝えると「“史上最大の下克上”って、テレビも新聞も大きく報じてくれた。こんなに大きく報じられたこと、なかったよ」と喜んだ。その言葉を聞いた次の瞬間、芸能&映画記者になって3年後の12年春に突然、電話をかけてきた海野さんの悲痛な声が、脳裏によみがえってきた。

「君らスポーツ紙、サッカー専門メディアは代表戦のようにJリーグの取材をしてくれない。J2など全然、取材に来ない。一体、どうやったらJリーグの取材に来てくれるんだね?」

記者は日本代表を担当した当時、J1だけでなくJ2の取材にも足を運んでいたが、どうしても代表戦に比べると、Jリーグ自体の報道は扱いが少なかった。特にJ2は、取材に行っても記者室で見かけるのはクラブの公式ライター、地元メディア、フリーライターら、わずか数名。先頭に立って甲府の再建に取り組み、J1昇格を2度果たすほど成長させた海野さんだけに、サッカー界を離れ、芸能界で取材していた記者にまで訴えずにはいられない危機感があったのだろう。

その状況は16~18年にサッカーの現場に戻った際、むしろ悪化した感さえあった。22年12月5日のワールドカップ決勝トーナメント1回戦で、クロアチアにPK負けした直後、日本代表DF長友佑都(36=FC東京)が「日本サッカー発展のためにもJリーグを、もっと盛り上げていかないといけない。皆さんの地域にチームがあると思う。応援してもらいたい」と訴えたのも無理はない。

海野さんには12年に電話をいただいた際、海外で取材した経験も踏まえJリーグ報道の改善プランを提示したが、実現には至っていない。再びサッカーの現場から離れて4年…今でも連日、元日本代表や関係者と意見交換している。芸能界を取材し、放送や配信の事情に詳しくなり、人脈も出来た今だからこそ出来ることもあるだろう。海野さんへの提案を実現できる日が来たら…少しは喜んでくれるだろうか。【村上幸将】

 

◆海野一幸(うみの・かずゆき)1946年(昭21)1月1日、山梨県笛吹市生まれ。山梨県立日川高から東農大に進み、卒業後は米国に2年間、留学。帰国後、山梨日日新聞社に入社。取締役編集局長、山梨放送取締役、山日YBSグループの広告代理店アドブレーン社常務を経て01年に甲府の社長に就任。04年にはJ2クラブから唯一のJリーグ理事会メンバー幹事に就任。16年に内閣総理大臣杯日本プロスポーツ大賞功労賞、18年には山梨県政功労者特別感謝状を受賞。