俳優として活躍し、「助けてチョーダイ」「キビシーッ」などの名セリフで一世を風靡(ふうび)した財津一郎さんが、亡くなっていたことが19日までに分かった。89歳だった。関係者によると18日に通夜、19日に葬儀・告別式が執り行われたという。

1934年(昭9)2月22日、熊本県生まれ。本名財津永栄(ながひで)。53年に高校を卒業し、早大の演劇科を受験するも失敗。同大正門前の印刷所で住み込みで働いた。その後帝劇ミュージカルの研究生となり、国会風刺劇「赤い絨毯(じゅうたん)」で初舞台を踏んだ。

日劇ミュージカルホール、ムーラン・ルージュなどを転々とした。大阪の吉本新喜劇に流れ着いた当時は、60年に結婚した妻と1歳の息子の3人暮らしで、ラーメン1杯50円の時代に、収入は月1万~2万円だったという。

その後「キビシーッ」「助けてチョーダイ」などのセリフが評判となり、66年コメディー「てなもんや三度笠」で人気に。浪人蛇口一角役で、剣の達人の設定だが、何事もオーバーな表現をするちょっと濃いめのキャラクターだった。テレビやラジオの仕事も急増し、名前は一気に全国区となった。

70年には映画「喜劇・度胸一番」に初出演。79年から出演した「3年B組金八先生」シリーズでは、英語教師、左右田先生を演じた。85年には「野風増」で歌手デビューした。95年には脳内出血を発症し、緊急手術を受け、リハビリを経て俳優業に復帰。04年にはNHK連続テレビ小説「天花」に出演した。

「3年B組金八先生ファイナル」に出演した11年以降は新たな仕事の依頼をほとんど断っており、「タケモトピアノ」など、以前撮影したCMが長く使用されている以外は、実質的な引退状態にあった。

04年に日刊スポーツのインタビューを受けた当時は、妻、息子夫婦、孫との5人暮らしだった。「孫は男の子。帰宅すると『ジージー』と抱きついてくるんです。抱きしめたとき、命の輝きを肌で感じ『まだ、この子のために命を燃やさないとだめだ』という気になりますね」と話していた。

◆財津一郎(ざいつ・いちろう)本名財津永栄(ながひで)。1934年(昭9)2月22日、熊本県生まれ。53年に高校を卒業し、帝劇ミュージカルの研究生となり、オペレッタ「赤い絨毯」で初舞台。日劇ミュージカルホール、ムーラン・ルージュ、吉本新喜劇などを転々とし、66年コメディー「てなもんや三度笠」で人気に。70年には映画「喜劇・度胸一番」に初出演。85年には「野風増」で歌手デビューした。60年に元新劇女優の武山洋子と結婚。 孫に俳優の財津優太郎(24)がいる。血液型O。