ダウン・タウン・ブギウギ・バンドで一世を風靡(ふうび)した宇崎竜童(77)がデビュー50周年を迎えた。「ブレブレですよ」と謙遜しながらも作曲、俳優、映画監督とウイングを広げ、山口百恵、所ジョージ、桑田佳祐…時の人を引き寄せ続けてきた。縁と運に導かれたかのような半生からは芸能史半世紀の断面が見えてくる。【相原斎】

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大学で出会った作詞家の妻・阿木燿子(78)とのコンビで、作曲活動は学生時代から始めたが、堅実な生活を望む両親の手前、卒業後は商社に就職した。

「1カ月休みなく出社したけど、やっぱりダメでしたね。退社してフラフラしていたら、芸能プロを経営していた義兄に誘われて、そこでマネジャーをすることになったんです」

グループサウンズ(GS)ブームに陰りが見えた頃で、後に「愛のメモリー」で知られる実力派、松崎しげる(74)をスカウトしたのが実は宇崎だった。

「新しいバンドを探していたら、ベースを弾きながら歌のうまい子が目に留まった。それが松だった。初任給は僕の給料と同じ1万8000円。中小企業でも初任給4万くらいの時代だったからかなり安かった」

学生時代からの思いは抑えがたく、2年で義兄のプロを辞め、クラブで弾き語りをするようになった。

「銀座でやっているときには、それこそ松がお客で来たり、加山雄三さんが来たり…。冷や汗でしたね。歌いたい人に伴奏を付けるのも仕事で、毎日来る社長さんがいて、必ず『旅姿三人男』を歌うんです。当時のクラブは譜面通りの伴奏が当たり前でしたが、その社長さんはかなり外す。僕はどんな変調にも対応したから、クラブを歌い歩いている社長さんにすれば最高の伴奏者なんですよ。『君は銀座で一番だ』と握手された手のひらに折り畳んだ1万円札が。それが毎日でしょ。クラブからも給料10万もらってましたし。やばいと思ったんです。このままじゃダメになる、と」

折よく、新しい芸能プロの設立に誘われた。

「企業のパーティーに所属バンドを手配する仕事だったんですけど、バンドが出払ってしまった時があって、仕方なく僕と急ごしらえのメンバーで出演したのがダウン・タウン・ブギウギ・バンドの始まりです。当時一番長かったサディスティック・ミカ・バンドより長い名前にしようと。ラッパ(トランペット)も吹きたかったから、笠置シヅ子さん以来の『ブギウギ』も入れたんです」

デビュー翌年の「スモーキン・ブギ」が予期せぬ大ヒット。白いつなぎルックとともにブームになった。

「先にデビューした矢沢永吉のキャロルが革ジャンだったから、何か違うものを、と考えていた。夏の湘南海岸の仕事で着るものがないから仕方なく着たのがつなぎでした。運送屋でアルバイトしていたメンバーから、寝間着代わりにと、もらった作業服。ちょっとヤンキーっぽいお姉ちゃんたちが寄ってきて『お兄ちゃんたちかっこいいね』って。へぇと思って、じゃあこれで行こう、と」

これが後にヤンキー、暴走族…反抗の象徴となった「つなぎ服」の原点だ。

今もCMソングに使われる「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は、その翌年に発売した「カッコマン・ブギ」のB面だった。

「当たったから、次もブギで行こうよとなったんだけど、実は『港のヨーコ』がA面にひっくり返るだろうという予感もあった。何しろメロディーがないから、ライブで歌ったときに歓声までに不思議な間があったんです。あれっ、これ歌じゃないじゃんって。この妙な隙間って、実はインパクトかもしれない、と」

 

時のトップアイドル山口百恵に「横須賀ストーリー」を提供したのはその2年後。彼女の出身地をタイトルに、この曲独特の陰りが以降のイメージに厚みを付けた。宇崎=阿木コンビの提供曲は30曲あまりにおよび、その全盛期を支えた。

「僕らは酒井(政利=21年85歳没、山口百恵の生みの親と言われた音楽プロデューサー)さんから依頼されたわけだけど、記者さんたちから『百恵さん本人の要望』と。信じられなかったね。16歳の女の子がそんな自己主張をするとは思わないから。30年くらい後ですよ、百恵さんの本心を聞いたのは。引退から時間がたって、周りもすっかり落ち着いた頃に食事をする機会があったんです。その時本人から『私が宇崎さんと阿木さんにお願いしたいと言ったんです』と」

所ジョージ(69)のブレークにも関わっている。

「ことごとくオーディションに落ちている歌手がいる。会ってやってくれませんか、と。ニッポン放送に行ったら、リーゼントにサングラスの僕のモノマネみたいのがいた。どんな歌歌ってんの? と聞いたら、『それはともかく』と机の下で箱みたいなものを渡してきた。見たらラッキーストライクのカートン(10箱)だった。エッてなったら、『ワイロです』って。しょうがないなって(笑い)。月1回やっていたジァン・ジァン(渋谷にあったライブハウス)の前座に出てもらった。そしたら2回目かな、近くだから見にきていたんだろうね。NHKから所にレギュラーの声が掛かった。どこかにキャッチーなものを持っていたんだね」

俳優としてもその個性から仕事が絶えない。最近でも映画「BAD LANDS バッド・ランズ」(23年)の元ヤクザ役や、NHKテレビ小説「らんまん」(同)のジョン万次郎役で強烈な印象を残している。初主演は映画「曽根崎心中」(78年)だった。

「何度か曲を提供する機会があった梶芽衣子さんから声を掛けていただいた。増村保造監督はちょっと不良がかったシンガーを起用することがちょいちょいあったようで、演技のお手本を見せてくれて、これがうまい。その通りやればいいんで、難しくはなかった。逆に梶さんは叱られてばっかり。僕からすればどこか悪いか分からない。こっちは素人だもの。小林薫さんから『積み重ねないってことです』と演技の極意をうかがったことがあって、それをいいように解釈して今でもひたすら監督の言う通りにやってます。それはずっと一貫してますね」

内田裕也(19年79歳没)企画・脚本・主演の映画「魚からダイオキシン!!」(92年)では監督を務めた。

「企画モノ的なピンク映画で初めて監督したときに裕也さんに出てもらったんです。で、それが終わった時に、『お金集めてきますから一緒にやりましょう。で、どっちがやります?』って。よく意味がわからなかったけど、何のことか聞くと話がめんどくさくなるから『僕がやります』と言ったら、『くぅー、そっちがやる』と。監督のことなんですね。で、裕也さんが主演することになった。いや逆だったら、僕はどれだけいじられたかって。ぞっとしますよ」

さりげなく言うが、他にビートたけし、横山やすしと超が付く個性派ぞろいの出演者をさばき、コミュニケーション能力の高さを実証した。一方のバンド活動は竜童組、RUコネクションとメンバーを変えながら続けたが、98年にいったん休止する。

「何年もやると煮詰まるんです。このままズルズルやるのはいかがなものか、と。ステージに好き勝手にお金使うから、金銭的にも煮詰まるんですけどね(笑い)」

この時「Hey! Ryudo!」(98年)で「唄いなさ~い 身にしみるようなメロディ聞かせて…」と再開をうながしたのが、宇崎ファンを公言している桑田佳祐(67)だった。

「個人でやっている感じがいいと思ったのか、デビュー前に所属させてくださいと訪ねてきたことがあったんですよ。デモ・テープ聴いたら、いける感じだったし、ウチに来たら売れないから、ちゃんとしたとこ行きなさいって。そんなこともあって、奥さん(原由子)に曲を書いたりしたこともあったから。彼にしてみればブレブレになっている僕の状態に『ん?』って思ったのかも。桑田君の気持ちにありがとうだったね」

09年「天皇皇后(現上皇上皇后)両陛下御大婚50年をお祝いする集い」で祝辞を述べる大役も果たした。

「その何カ月か前に『オリヲン座からの招待状』という映画の試写会に美智子さまがいらっしゃったんです。上映中はずっと背もたれに背中を付けない。すごいなあと。お声がけがあると言われ、主演の原田芳雄さんなんか『何話したらいいんですかね?』とソワソワしてる。僕は『こちらから何かを言うわけではなくて、お声がけをお待ちすればいいだけですよ』と、初体験なのにまるで慣れているように(笑い)。と、美智子さまが僕のところに来られて、映画館が閉館する内容に、『私が学生の頃は3本立てを見て、1本はエノケン…3本目は何かなと思ったらチャンバラでした』とお話しになった。ユーモアがおありになる方なんです。あれが集いに呼んでいただいたきっかけなんでしょうが、実は祝辞でもその話をさせてもらったんですよ」

改めて半世紀を振り返り「ブレブレですよね。後悔はするけど、反省はしないまま、好奇心のままにやってきた気がします。ブレなかったのは阿木さんとの関係だけですね」。

■宇崎竜童の芸能生活半世紀

▼1973年(昭48) 「知らず知らずのうちに」でデビュー

▼74年 「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」がヒット

▼75年 映画「トラック野郎」シリーズに主題歌「一番星ブルース」

▼76年 「横須賀ストーリー」を山口百恵に提供。内藤やす子に提供した「思い出ぼろぼろ」はレコード大賞新人賞

▼78年 映画「曽根崎心中」に初主演

▼82年 映画「TATTOO〈刺青〉あり」に主演

▼84年 映画「上海バンスキング」で日本アカデミー助演男優賞

▼89年 「Soul searching」がTBS系「NEWS23」のエンディングテーマに

▼92年 映画「魚からダイオキシン!!」を監督

▼01年 NHK大河「北条時宗」出演

▼05年 舞台「天保十二年のシェークスピア」がミュージカルベストテン特別賞

▼13年 湯布院映画祭で音楽担当と出演作の特集上映

▼23年 50周年LIVEをスタート

◆開催 5月11日、東京国際フォーラムで50周年記念公演「宇崎竜童 アゲイン」を開催する。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドからRUコネクションwith井上堯之までを網羅した文字通りの集大成的ステージ。

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◆相原斎(あいはら・ひとし)文化社会部では主に映画を担当。黒澤明、大島渚、今村昌平らの撮影現場から、海外映画祭まで幅広く取材した。著書に「寅さんは生きている」「健さんを探して」など。駆け出し記者の頃、縁あって何度も宇崎竜童さんを取材。二十数年ぶりの再会に、額に手を当てた竜童さんは「ここから下は変わんないね。俺もだけど」。いやいや、髪がなくなったのとカッコ良くグレーになったのとでは全然違いますから。