死者1万5900人、行方不明者2523人(9日現在)の被害を出した東日本大震災の発生から、11日で丸11年となった。大津波で児童74人、教職員10人が死亡、行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校では11日午後5時30分から、初めて「大川竹あかり」という鎮魂イベントを行う。実行委員長の佐藤和隆さん(55)は小6だった三男雄樹くん(当時12)を亡くした。昨年丸10年の命日を迎え、今年から未来を見据えようと、校舎脇の広場に鎮魂の明かりをくべる。

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「レスキュー隊員になりたい」。

雄樹くんの夢だった。04年の中越地震。2歳男児がレスキュー隊員に救出されるテレビ中継を食い入るように見た。当時まだ幼稚園児。その夢を小6まで変わらず持ち続けていた。

津波は命も、少年の夢も奪った。「暇ができると震災のつらさがフラッシュバックする」と佐藤さん。家庭でも震災の話はタブー。だからこの11年、仕事や伝承活動など、あえて慌ただしく過ごしてきた。

「あの日も送迎していれば…」。震災前日まで4日連続で荒天が続き、雄樹くんを小学校まで車送迎していた。だが11日だけ「お父さん、今日は自転車で行くよ」と言い残し、登校。「10日までと同様に、午後2時30分に迎えに行ってれば、あの子は生きていたはずなのに…」。いくら月日がたとうとも、後悔の念で胸が張り裂けそうになる。

子どもの死を無駄にしない-。その一心で11年間を生きてきた。19年10月、最高裁が宮城県と石巻市の上告を退けたことで確定した遺族側の勝訴。そして学校防災の不備を指摘する画期的な判決を勝ち取った。

遺族らで行ってきた語り部活動の参加者も延べ30万人を超えた。悲劇を繰り返させないため、学校防災を前進させる裁判や、伝承活動にまい進してきた。

それでも風化は止められなかった。「10年一区切りと言うが、あっという間に進んだ」。交流がある阪神淡路大震災の遺族からも指摘されていたが、身に染みて感じる。だからこそ「10年目まではできなかったけど、11年目なら」と未来へ向けた新たな取り組み「大川竹あかり」という鎮魂イベントを企画した。

大川地区で集めた竹に意匠を施し、中にLEDをともす。死者、行方不明者84人分プラスアルファの竹の加工に2月から、延べ500人ものボランティアが遠くは熊本から参加した。

遺族とボランティアが同じ作業をする環境から、語り部活動よりリラックスした中で相互の会話が生まれた。心情を察して遠慮がちになる、被災当時の子どもの様子をうかがう質問も飛び交うようになった。

「新たな伝承活動にもなり、遺族もため込まずに話すことで精神的に良い面もある」。毎年3月11日に合わせて開催したい考えだが「本当はまだ後ろ向きなんだよ。でも竹あかりの時だけは、何とか前を向こうってね」と漏らした。

生きていたら23歳の雄樹くん。「困難でも人を助ける立派なレスキューになっていたと思う」と言ったが、実情は違った。「大人の姿が想像できない。当時の息子しかイメージできないんだ…」。止まった時計の針を動かす作業は、そう簡単ではない。【三須一紀】

◆大川小の被害 校舎は海岸から約4キロ離れていたが、津波が北上川をさかのぼり、川沿いの学校敷地を襲った。全校児童108人、教職員13人中、校庭にいた児童74人と、校内にいた教職員10人が死亡、行方不明となり、東日本大震災の学校管理下において最悪の災害となった。児童23人の遺族が、学校の防災体制に不備があったとして、損害賠償を求めた訴訟で、最高裁は14億円余りを市と県に命じた。大川小は震災遺構として保存され、昨年7月中旬から公開された。

◆東日本大震災 2011年(平23)3月11日午後2時46分、宮城県沖を震源とするマグニチュード9・0の地震が発生。最大震度は宮城県栗原市の震度7を観測した。岩手、宮城、福島の3県を中心に沿岸部は大津波に襲われ、22年3月9日現在の死者は全国で1万5900人、行方不明者は2523人。昨年9月末現在の震災関連死は3784人。11年3月11日に発生した東京電力福島第1原発の事故では、避難者は一時16万人以上に上った。