<広島1-0巨人>◇2009年(平21)10月10日◇マツダスタジアム

引退試合はグッとくる。「冷静であれ」と自戒する野球記者であっても、この日ばかりは感傷的になってしまう。プロ野球を取材して18年目だが、秋晴れのマツダスタジアムが忘れられない。

1-0でリードの8回1死走者なし。広島緒方孝市がプロ最終打席に立っていた。巨人ゴンザレスの初球だ。外角速球を打ち、右中間を破る。40歳は一気に三塁へ。両足はもつれて頭から滑り込む。しゃがんだまま立てない。負傷していた腰は激痛に襲われていた。

その直後、次打者で捕手が後逸すると、今度は本塁へ。だが足はもたつき、ヘッドスライディングも本塁に届かない。あえなくタッチアウト。限界だった。あの鬼気迫る表情はなく「サードまで、まともに走れない。体は、いっぱいいっぱい。2回くらい、転びそうになった」と振り返った。

09年10月、巨人戦での引退試合で花束を手にファンの声援に応える緒方孝市
09年10月、巨人戦での引退試合で花束を手にファンの声援に応える緒方孝市

打って守って走れる。3拍子そろったプレースタイルは若いころから、追い求めてきた理想の姿だった。

「若いころから『走れなければカープの野球はできないよ』と言われてきたからね。自分の生きる道は走ることと守ること。それしか生き残る道はない」

ベンチでヒントを探す。塁上に立つ高橋慶彦らの走りを研究した。気づいたことがあった。「最初のリードを取る距離が自分と比べて全然違う。でもな、聞きに行けないし、聞こうとも思わない。見て盗んだ」。95年から3年連続盗塁王。99年に自己最多の36本塁打を放ち、俊足強打のスタープレーヤーに駆け上がる。

転機があった。まだレギュラーに定着前の95年、シーズン中に母孝子さんが他界した。葬式で親戚に聞かされた。「孝市君、知らないよね。あなたが1軍の試合に出るようになって、お母さん、あなたに絶対に連絡しないだろうけど東京ドームとか甲子園にたまに1人で行って試合を見ていたんだよ」。初めて知ったという。親心に触れ、目が覚めた。「俺、何やってんだろう。レギュラーじゃないのに、1軍にいるだけで満足して、生意気に車を買って…」。この道で生きる覚悟が定まった時間だった。

日が傾いたマツダスタジアムでは、引退試合のセレモニーが続いていた。場内1周。誰に気づかれることもなく、バックネット裏の大観衆にまぎれて、家族の女性が遺影を掲げて立っていた。額縁のなかから見ていたのは、緒方の母だった。

緒方は引き際の決断をこう語っていた。「試合が終わったら、いつもユニホームは泥だらけやった。それが気づけば真っ白のまま。ユニホームってな、試合が終わったら汚れているものなんだ」。この日は違う。赤土にまみれていた。

時は残酷だ。誰もが、いつか衰えがやってくる。それでも、右膝、腰部ヘルニアなど、何度手術しても、くじけずに立ち上がった人がいた。深い愛情で見守る人がいた。人生にかけがえのないものが詰まっている一戦だった。(敬称略)【酒井俊作】