古都・京都には伝説の剛速球の軌道が、今なお残っている。戦前、巨人のエースとして活躍し、戦火に消えた故沢村栄治投手は、京都商(現京都学園)で甲子園への道を歩んだ。卒業後、母校に“沢村コーチ”として立ち寄った、つかの間の日々は、幸福のひとときだったのかもしれない。

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 1937年夏。京都商のマウンドに沢村が立った。「捕手山口か。それはいい」。自身の高校時代の恋女房だった山口千万石と同姓と聞き、懐かしさがよぎったのだろう。同年春に自己最高の24勝を挙げ、巨人の絶対的エースとして君臨していた。剛腕が学生を相手に1球を投じた-。

 会社員で「洲崎球場のポール際」の著書を持つ、森田創氏。沢村栄治の銅像にまつわる新作を執筆するにあたり、沢村の球を受けた人物に出会った。山口吉男。90歳代半ばとなり、その目と左手に、在りし日の残像は焼きついている。

 山口 球の伸びはいまだに忘れられない。本当に構えたところに来た。受けた時の感触が全然違った。

 当時の京都商エースは中尾碩志だった。後に巨人で209勝を挙げる左腕だがノーコンを抱えていた。中尾を巨人入団に誘うため、沢村は水原茂らとともに指導に来た。今日のような厳格なプロアマ規定はない。「投げるために体の全部を使え。足のツメから指のツメまで。全部がつながっているのだから。体の力を全部使ってボールに込めろ」。デモンストレーションのための捕手として指名されたのが山口だった。

 京都商の高須武之介監督は「本気で投げたら死ぬぞ。相手は子供なんだから」と沢村に声を掛け「絶対にミットは動かすなよ。動かしたら死ぬぞ。あいつはコントロールはいいから構えたところには来る」と山口に厳命した。中尾への教材としての投球。山口が戦慄(せんりつ)を述懐する。

 山口 軽く投げたのでしょう。見たことのない球だった。でも本気で投げている時の中尾さんより全然怖かった。

 沢村は投手指導だけでなく、打撃投手も買って出た。精密なコントロールで選手たちも快音を響かせた。好感触のあまり「ヨシ!」と声を出す者がいた。沢村の目の色が変わる。「何がヨシ! や」。体をえぐるように投げてきた。野球人沢村栄治としてのプライドを学生にも、ド直球で示してきた。

 “コーチ”は夢がかなった時間だった。学生時代は本当は、大学進学を希望していた。先生になり、野球を教える夢を抱いていた。だが苦しかった家業を助けるため、高校を中退し、プロ入りする道を選ぶしかなかった。巨人で栄光と大投手の称号も手に入れたが、求めていた本来の道でなかったのかもしれない。

 臨時コーチの約1週間。グラウンドの傍らには、麗しき女性がいた。選手たちは「洋装のお嬢さんがいる」と色めき立った。後に沢村の妻となる優だった。愛する女性に見守られながら、母校の後輩たちを甲子園へと誘おうとした片時は、伝説の投手にとって至福だっただろう。(敬称略)【取材構成・広重竜太郎】

 ◆京都の夏甲子園 通算118勝89敗1分け。優勝4回、準V9回。最多出場=龍谷大平安33回。