「よく頑張りました!」の力強い言葉で、恩師が藤川をねぎらった。長い2軍生活を送っていた藤川の才能を開花させたのが、03年から阪神2軍投手コーチを務めた山口高志氏(70)。挫折と成功を繰り返しながら全身全霊で野球に向き合った教え子を思い「気持ちの強さも才能だった」と、火の玉ストッパーを語った。

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8月31日の夕刻、旧知の記者から電話があった。着信を見たとき、予感がした。「球児…引退か…」。事前に何かを聞いていたわけではない。だが、予感は当たっていた。心に残る教え子の1人が、プロ野球選手としての人生に幕を下ろす。

98年ドラフト1位で入団も、毎年のように藤川は右肩、腰、膝、右肘などに故障を抱え、1軍戦力になりきれなかった。故障箇所を治療、強化し、入団から6年でプロ仕様の体を作り上げた。持てる力を投球で表現できる体を手に入れ、そこに2軍投手コーチだった山口氏の指導が貴重な助言となった。右膝を折り、沈み込むような投球フォームで投げていた藤川に、右膝を伸ばすように意識させた。

「誰にでも言っているアドバイスなんですよ。右投手なら、右膝を使えと。だけどそれに耐えられる体になっていたから、自分で取り入れることができて、上がっていったんじゃないかな」。阪急黄金時代の伝説の剛腕・山口氏との出会いが、球界を代表する「火の玉ストッパー」誕生につながった。

藤川はタイガースの守護神の立場に安んじることなく、メジャーにも挑戦した。だが故障に見舞われ、上昇カーブを描いていた野球人生は再び停滞期を迎えた。「挫折と成功の繰り返しやったと思う。メジャーで活躍できなくて、帰国して独立リーグで再出発。タイガースに復帰して先発に挑戦して思うように行かず、また抑えになった。挫折するたびに、そこからはい上がった。野球に真摯(しんし)に向き合っているからというか、だれでもそうなんやけど、野球にすべてをつぎ込む気持ちの強さがあった。大変な覚悟を持って高知から出てきたのだと思う」。前へ前へと突き進む力こそ、山口氏の知る藤川ならではの才能だった。

目の前の1試合にかける熱さを知っている。今の山口氏には、引退後の藤川の姿は想像できない。「指導者、評論家の球児の姿は想像できんね」と苦笑する。ただユニホームを脱ぐ前に、見せてほしい風景がある。「セレモニーではない。甲子園で、シーズンの真剣勝負の場で投げる姿を、見せてほしい。1試合でもいい。これまではチームを背負って投げてきた。その試合では、自分自身を背負って投げてほしい。その姿を見守りたいです」。最後の勇姿こそ、忘れられない風景になる。【堀まどか】