日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1933年(昭8)7月26日、吉田義男は京都市内で薪炭商を営んだ父正三郎と母ユキノの間に生まれた。2男3女の次男。朱雀第八小学校で三角ベースに興じたのが、野球との出会いだった。

吉田の実家から徒歩5分のところに暮らした今井正治は1歳年上だったが、大病で留年したことから、中、高の同級生だった。今年90歳で卒寿を迎える今井は「ヨシオ」と呼ぶ間柄だ。

「京都は戦前から野球が強かったんです。ヨシオの家の筋向かいにあった竹内鉄工所が世話好きで、子どもたちを集めて野球をやった。食べるにもひもじい時代で甘いものに飢えてたから、一番ほしかったのは砂糖で、いつもサッカリン(人工甘味料)をなめてました。かろうじてブタ革の薄いグラブがあったでしょうか。戦時中は付き合いができなかった。でも背が低いので目立たないが、足も速くて運動が達者でした」

吉田少年は太平洋戦争の戦禍を逃れるために、学童疎開を経験した。終戦した年の45年3月、両親と離れ、長姉・芳子、妹・章子、いとこたちと母方の実家だった京都府南桑田郡本梅村(ほんめむら=現亀岡市)に身を寄せて食いつないだ。

吉田が本格的に野球を始めたのは、戦後の47年に入学した旧制京都市立第二商業からだ。48年、戦時中に中断されていた甲子園大会が再開し、学制改革に伴って「高校野球」になった。

その記念すべき“第1回センバツ”の決勝は、今なお伝説として語り継がれる京都一商-京都二商の対決で、京都一商が1-0でサヨナラ勝ち。補欠だった吉田は、この一戦をスタンドから見ていた。

学制改革によって49年に山城高に編入したが、4月に結核を患って病弱だった父を亡くし、9月には母も他界した。吉田は「家庭の事情もあったし、経済的にも苦しかった」ともらす。

その負い目もあって、野球部からの勧誘に踏ん切りがつかなかった弟を、2つ年上で伏見工建築科にいた兄の正雄は「お前は野球を続けろ」と気遣った。商売向きでないのに、家業を継いで弟を支えた。

幼なじみの今井は「小さい頃(兄の)正雄は投手で、みんな捕手は怖がってやりたがらないので、ヨシオがやったときもあったんです。ヨシオは野球一辺倒になった」と兄弟愛に触れていた。

山城高2年の50年夏、甲子園に初出場し、開会式当日の第2試合だった北海(北海道)に3-5で敗退。鉄傘がない、白い服を着た観客で埋まった甲子園はまぶしく、そしてほろ苦かった。

今でも大切にしまった「甲子園の土」をながめることがある。当然のことながら、後々、その聖地と太い“糸”で結ばれるとは、だれも知る由がなかった。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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