日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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阪神が巨人、広島の三つどもえから抜け出した。1985年(昭60)の長期ロードは7勝7敗の3位。首位に躍り出たのは、8月27日の広島戦(甲子園)だ。

同点の6回に広島北別府学から、岡田彰布が23号3ランで勝ち越した。8回も24号ソロでダメ押し。真弓明信も27号、山川猛の4号と併せて1試合4本塁打など10対2の快勝だった。

仲田幸司が7回途中までを抑えて、1軍昇格後初の白星になった3勝目。巨人が中日にサヨナラ負けを喫して首位から転落。阪神は11日ぶりに0・5ゲーム差でトップに立った。

しかし、9月4日の中日戦(ナゴヤ)の試合前練習で、抑えの山本和行が左アキレス腱(けん)断裂のアクシデントに見舞われた。ダブルストッパーだった中西清起がフル回転した。

苦戦した対広島だが、9月7、8日に連勝。巨人、広島をジワジワと引き離す阪神の戦いぶりに、巨人V9監督で、日刊スポーツ評論家の川上哲治がバックネット裏から論じている。

「吉田監督はチャレンジャー精神を基本にしているが、それが投手交代の積極性に表れています。しかし勝負はまだまだわからない。本当のプレッシャーはこれからです」

初めてマジック「22」が点灯したのは9月11日の大洋戦(横浜)。1点を追う5回に岡田の右越え28号2ランで逆転。吉田は「岡田はよく打ったが、その前の掛布の四球が大きかった」とクリーンアップが機能したことを評価した。

4番の掛布雅之は「マジックが出たといっても全部勝たなきゃいけないんでしょ。今の時点では意識することはないです」、ショート平田勝男は「まだ実感がないですね」と話している。

若手トップ女優の夏目雅子が死去。夜には保険金目当てで妻を殺害したとされる銃殺、傷害事件の“ロス疑惑”で、三浦和義が逮捕されるニュースが飛び込んで騒然とした日だ。それでも関西スポーツは1紙を除いた5紙が阪神を1面トップに報じた。

シーズン130試合制の100試合を超えて最大7・5ゲーム差をつけたが、吉田は「優勝」の2文字を封印し続ける。番記者からの誘い水にも「優勝」のセリフは口にしないと決め込んだ。

現役時代の64年は、首位大洋(現DeNA)に6・5ゲーム差をつけられながら終盤に9連勝で逆転し、奇跡の優勝を達成していた。逆に大洋はあと1つ勝てば優勝だったが苦汁をなめた。阪神監督は藤本定義だった。

「ぼくには昭和39年のことが頭にあったので、最後まで優勝とは言わなかった。記者からはよく優勝宣言を迫られましたわ。でも勝負はげたを履くまでわからない。一丸、挑戦、そして当たり前のことを当たり前にやる。ひたすら言い続けました。優勝はそんな甘いもんと違いますわ」

そんな慎重居士とは裏腹に、もはやチームの勢いは止まらなかった。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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