日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

    ◇    ◇    ◇

猛打をふるった1985年(昭60)シーズン。吉田がこだわったのは打力よりも守備力だった。05年に監督で優勝に導いた岡田彰布は「『守りで攻める』といったのは、吉田さんが最初じゃないかな」と語った。

今なお守備にうるさいのも原体験からくるものだろう。監督の松木謙治郎から新人遊撃手として抜てきされたが、エラーを繰り返した。先輩から怒鳴られながら、松木は吉田を起用し続けた。

「いかに素早くボールを持ち替えて投げるか」に執着して力をつけた吉田は“牛若丸”の異名を取るほどの名遊撃手に育った。巨人監督の水原茂に「三塁守備は長嶋よりうまい」と言わしめた元阪神の三宅秀史から、生前に聞いた。

「よっさんは万人が認めた名ショートだよ。打球が飛ぶと一瞬、静寂になって、捕ったときにワーッと歓声が起きる。あんなショートはいない。今の内野手は昔ほど無理をしない。大半のエラーは送球ミスだ。その前に捕球姿勢が悪くなるから、それを避けるんだろう。でもプロだったら捕りにいってほしいよね」

85年、阪神のチーム78失策は、広島の76失策に次ぐ少なさだった。監督就任の際に掲げた「センターライン強化」に伴う“大コンバート”の戦略は成功を収めた。吉田は「掛布が5年連続でサードとして130試合にフル出場してくれたのもうれしかった」という。

「掛布の守備は安定感があった。プロ入りしてきた時は肩は強いが粗雑だった。でもよくノックを受けたし、連日の特守は掛布の基礎になった。遠征先でも駐車場、娯楽部屋でバットを振っていたというのは、見ていないけど知ってました。球界を代表する選手になりましたわ」

コンバートで誕生した岡田と平田勝男の二遊間コンビも、猛練習の産物だ。守備・走塁コーチの一枝修平は、岡田のプライドに気遣いながら「同じ二塁の永尾(泰憲)にノックをして、永尾に教えるフリをしながら、岡田に教える手法を取ったこともあった」という。

岡田は「二-遊-一」の併殺プレーでもみせた。平田の強い地肩を見越し、ショートが一塁走者からのスライディングから逃げられるポイントに送球しながらゲッツーを成立させた。

吉田は内野陣の“呼吸”を合わせるために、安芸キャンプから各ポジションを固めた上で、ひたすらノックを繰り返した。土の甲子園をホームにする阪神で、守備位置の固定を強調する意味はそこにあった。

吉田は「防御率4点台(4・16=リーグ4位)で優勝なんておこがましい。でも弱い投手陣を固いフィールディングでカバーしてきた。甲子園が内野手を育てる球場であることに、変わりはないはずです」と声を大にした。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

連載「監督」まとめはこちら>>