今年も漫才日本一決定戦、M-1グランプリの季節がやってきた。史上最高の5081組のエントリーから、現在までに残った25組が12月2日の準決勝、同20日の決勝へ向けてしのぎを削る。2年前の18年の挑戦ラストイヤー、敗者復活戦でわずかに及ばず初の決勝進出を逃したお笑いコンビ、プラス・マイナスの岩橋良昌(42)と兼光タカシ(42)は、その後に大活躍だ。手が届かなかったM-1と漫才への思いを聞いてみた。

★18年13回に及ぶ挑戦終わる

霜降り明星が史上最年少優勝を飾った、2年前の「M-1グランプリ2018」。その敗者復活戦で、02年から13回に及ぶプラス・マイナスのM-1への挑戦は終わっていた。前年の決勝3位のミキに敗れて、敗者復活戦で2位。会場の笑いは明らかにプラス・マイナスの方が大きかったが、視聴者投票は若く知名度抜群のミキを選んだ。

高校野球ネタで、ハイテンションのしゃべくりで笑いを巻き起こした巨漢のツッコミの岩橋良昌は「僕は完璧主義者で、満足して舞台を降りたことはなかった。でも、あの時だけは完璧。自分のパフォーマンスも、相方のパフォーマンスも、心持ちも全部100点。正直、ぶっちぎりでいったと思いました」。

ハイスペックなものまねを次々と繰り出したボケの兼光タカシも「ほんま、芸人人生で一番、手応えがあったいうのもありましたし、一番悔しかったですね」。

賞レースに対しては苦手意識が強かった。

岩橋は「大っ嫌いでしたね、M-1グランプリ。僕らは劇場でウケる漫才をするので、賞レース向きじゃない。賞レースは見たことのない設定や切り口だったりする。僕らはそれが苦手で。僕らは若いころからNGK(なんばグランド花月)に立たせてもらって、お客さんを笑かしてきた。負けて、自分たちのスタイルをM-1用にシフトしたり、もがき苦しんだけど、結局、無理やった。最後は基本に立ち返って、劇場でウケるネタを本気でやって生き返った。けど、結局、扉は開かなかった」。

長年、夢見たM-1の決勝、優勝はかなわなかった。

岩橋は「やっぱり、悔しさは残ってますね。でも、決勝に行って優勝できなくても爪痕を残して仕事が増えることがあるんですけど、敗者復活戦でも爪痕を残したら仕事が増えるという新しい発見がありました」。

★銀シャリとジャルジャル同期

02年に吉本興業の芸人養成所・NSC大阪に入所。同期は16年M-1王者の銀シャリと、M-1決勝進出4回で今年9月にコント日本一決定戦、キングオブコント王者となったジャルジャル。

岩橋は「銀シャリは在学中は、コンビを組んでなかった。ジャルジャルは僕らが唯一笑ってしまう存在で、向こうも笑ってくれていた。でも、NSC時代は僕らが首席みたいな形で同期のトップを走っていた。そこからてんぐになって、気がついたら大阪の吉本の劇場でジャルジャルと銀シャリがトップになっていた。気がついたら遠い存在になっていました」。

銀シャリがM-1王者になった時のことを、岩橋は「仲がいいんだけど、悔しさが勝ってしまった。ちっちゃい人間やなぁと自分で思ったんですけど。なんか劣等感ですよね」。ジャルジャルのキングオブコント優勝は「悔しかったけど、それほどでは。彼らは漫才もやるけど主にコント。正直、畑が違いますから。だから彼らがM-1の決勝に行って、僕らが行けない時は悔しかった」。

兼光は「ジャルジャルの優勝は、僕は素直に喜べました。それこそ、ずっとコントをやってたから、もうええんとちゃう。優勝させてあげたいじゃないと」。

★近かった交野のバーミヤン

元々は大阪の交野高の同級生。高2から同じクラスのお笑いグループに。岩橋は「仲間を笑かすために、こたつの熱くなるとこだけリュックに入れて持ってったりね。ミッちゃん(兼光)は笑ってくれた」。

大学は共に1浪して、別々の学校へ。

岩橋は「サラリーマンにはなりたくなかったけど、親が行けっていうから。でも、全然おもろないし、学校に行かないでアルバイトばかりやったから、友達ができずにずっと孤独やった。で、2人で吉本のオーディション受けて、いける気がしたけど無理やった」

就職活動に精を出した兼光は、パソコン教室の大手と中華ファミレスチェーンのバーミヤンから内定をもらっていた。

岩橋は「僕は大学も卒業できそうになく、このままやったら自分の人生がグダグダになる。やっぱお笑いやなと思ってNSCに誘ったんです」。兼光から呼び出されたのは交野のバーミヤンだった。「ここで働くって言われると思ったら『NSCへ行く』って。どんな演出やねんて思いました(笑い)」。

兼光は「東京のバーミヤンの内定式にも出ていたんですけど、自分がどんだけ通用するやろうかと思って。親は絶対反対するやろうと思って、内定を断ってから言いました。今までで一番大きいため息をついてました。『なんで?』みたいな感じだったけど、すぐにおやじが『お前がやりたいんやったらええ』ってね。交野のバーミヤンに呼んだのは、ただ近かったから(笑い)」。

NSCを卒業して、すぐに大阪で軌道に乗り、やがて銀シャリ、ジャルジャルに追い抜かれた。12年に思い切って東京に来た。

岩橋は「大阪で、そこそこ仕事をもらっていて、もう1回ゼロになる不安もありました。実際にお給料も下がりましたから。でも、最終ゴールにしていた場所やからコツコツとやるかという感じでした」。

結局、M-1王者にはなれなかったが、ジワリと売れてきた。テレビ東京系「そろそろ日曜チャップリン」、フジテレビ系「ネタパレ」「さんまのお笑い向上委員会」、「人志松本のすべらない話」、日本テレビ系「笑ってはいけない」と全国区のお笑い番組の常連になった。

岩橋は「M-1のあと、ちらほらとテレビから声がかかるようになった。そして出れたときにチョッとだけ爪痕残せるようになった」。

兼光は「でも、やっぱりM-1の決勝には出たかったですね。行ったら最下位とかブービーもあったかもしれないけど、行けたら上に行く自信があったから」。岩橋は「憧れ続けたM-1の舞台には、もう2度と立つことはできない。一夜にして人生がひっくり返るチャンスもドキドキも味わえない。でも、だからこそずっとチャレンジャーでいられる。カネ(兼光)といくつになっても、ギラギラしていられるのは負けたおかげかなと、ちょっとだけ思いますね」

悔しさが大きな笑いを生んでいく。今年もまた、新しい王者と多くの悔しさが生まれていく。【小谷野俊哉】

▼放送作家・前田政二氏(55)

2年前の敗者復活戦を見た人たちが「面白い」と感じて使われだした。彼らは劇場に立つうちに徐々に面白くなった。漫才としてはオール阪神巨人、中川家の後を継ぐ正統派パワー漫才。教え子のNSCの生徒たちには「プロの漫才は、たとえ1分のネタでも汗だくで」と教えている。まさにプラス・マイナスが、それ。彼らは礼儀正しいし、かわいげもある。うれしいのは舞台を大事にしていること。舞台を大事にして息の長い芸人になってほしい。ゆくゆくは吉本を背負ってたつ芸人になってほしい。

◆プラス・マイナス

岩橋良昌(いわはし・よしまさ)1978年(昭53)8月12日生まれ、大阪・交野市出身。桃山学院大中退。167センチ、93キロ。血液型A。兼光タカシ(かねみつ・たかし)78年11月10日生まれ、大阪・交野市出身。169センチ、64キロ。血液型B。交野高同級生の2人が02年(平14)に吉本の養成所・NSC大阪に入所。03年6月デビュー。07年ABCお笑い新人グランプリ優秀新人賞、NHK上方漫才コンテスト最優秀賞。12年上方漫才大賞新人賞。16年4月に「プラスマイナス」から改名。

◆プラス・マイナスのM-1

NSC在校中の02年から毎年出場。06年から09年まで4大会連続で準決勝進出。ラストイヤーの18年は準決勝敗退で敗者復活にまわり、視聴者投票37万5909票を集めたが、ミキに次ぐ2位で初の決勝進出はかなわなかった。

(2020年11月22日本紙掲載)