元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が亡くなった。1日、オシム氏がかつて監督を務めたオーストリアのクラブ、シュトルム・グラーツも公式サイトで発表した。80歳だった。

クラブのジャゥク会長は、「イビチャ・オシムは素晴らしいコーチであるだけでなく、私が人生で出会った最高の人物の1人でもあった。私たちのクラブの最大のアイコン(象徴)であり、一緒に過ごした多くの時間を決して忘れません。彼はサッカーそのもの、それをはるかに超えた影響力を持っていた。彼の言葉は、永遠に私たちの中で生き続けます。奥様、2人の息子さん、そして家族全員に心からお悔やみ申し上げます」との声明を出した。

旧ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボ生まれ。1986年にユーゴ代表監督に就任。1990年W杯イタリア大会で8強入り後、シュトルム・グラーツ監督などを歴任し、2003年に市原(現ジェフユナイテッド千葉)の監督に就任。05年にナビスコ杯優勝を成し遂げた。

その確かな手腕を買われ、06年7月に日本代表監督に就任した。その直前、ワールドカップ(W杯)ドイツ大会で日本が1次リーグ敗退した後、W杯総括会見で日本サッカー協会の川淵三郎会長が「(五輪代表)監督はあくまで反町。スーパーバイザー的な立場、総監督として『オシム』が、あっ、オシムと言っちゃったね…」と発言。極秘情報を内定前に自ら口にした“事件”もあった。

そんな経緯もあったが、就任しアジア杯などを指揮。中村俊輔らに、オシムチルドレンと呼ばれた、自らのやり方を熟知する選手をうまくミックスさせながらチームを強化していた。

複数ポジションをこなす「ポリバレント」という言葉も広まった。意味は多様性で、必要に応じて複数のポジションをこなせる能力をいい、試合中には自ら考え、状況に応じた幅広いプレーを選手に求めた。

そんな中、07年11月に脳梗塞で倒れ退任を余儀なくされた。

哲学的な言い回しで印象的な言葉と、多色ビブスを与え、選手に考えさせるその独特の指導で、多くの日本人や世界の選手に影響を与えたサッカー界の知性、日本代表の功労者だった。

ジェフ千葉を率いていた03年4月に発した「肉離れ? ライオンに襲われた野うさぎが逃げ出すときに肉離れしますか? 準備が足りないのです。私は現役のとき1度もしたことはない」との言葉など、「オシム語録」で、日本サッカーに進むべき道を示してきた偉大な存在だった。

 

◆イビチャ・オシム 1941年5月6日、旧ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)サラエボ生まれ。86年ユーゴ代表監督に就任。90年W杯で8強。その後シュトルム・グラーツ監督などを歴任。03年に市原(現千葉)監督に就任。05年にナビスコ杯優勝。06年7月に日本代表監督に就任。07年11月に脳梗塞(こうそく)で倒れ退任。家族はアシマ夫人と2男1女。