“白い巨人”と呼ばれる世界一のビッグクラブ、レアル・マドリード(スペイン)。その一員となったサッカー日本代表MF久保建英(18)は、今や世界がその未来を注視するほどの存在となった。


南米選手権で日本代表に選ばれた久保建英(撮影・河野匠)
南米選手権で日本代表に選ばれた久保建英(撮影・河野匠)

この7月には、プレシーズンマッチで米国遠征するレアル・マドリードのトップチームに同行するから恐れ入る。日本人選手が、あの「銀河系軍団」に交じることになるのだ。米経済誌「フォーブス」が発表した最新の「世界で最も価値あるサッカーチーム」では、約42億4000万ドル(約4650億円)で堂々のトップ。2位にバルセロナ(約40億ドル=約4390億円)が続く。

2016年11月5日、J3に参戦するFC東京U-23(23歳以下)のメンバーとして、AC長野パルセイロ戦にJリーグ史上最年少となる15歳5カ月1日でデビュー。まだ中学3年だった久保を初めて取材した。以来、「天才少年」を追い続けてきた。


壮行セレモニーで東京の選手たちに胴上げされる久保建英(撮影・大野祥一)
壮行セレモニーで東京の選手たちに胴上げされる久保建英(撮影・大野祥一)

覚えている限り、久保が弱音を漏らしたことは、ただの1度もなかった。ICレコーダーに残った久保の言葉をあらためてたどっても、見当たらなかった。

年上の選手とのやり合いについて聞けば「自分はよく年齢について言われるけど、ピッチに立てば関係ありません」。

暑さによる疲労を気遣えば「自分たちの半面(のピッチ)だけが暑いわけではないので」。

世代別日本代表として参加した17年5月のU-20ワールドカップ(W杯)韓国大会、同年10月のU-17W杯インド大会といった国際大会。今季は首位を独走する東京での活躍を見続け、6月のキリンチャレンジ杯エルサルバドル戦でのA代表デビュー、南米選手権が行われた日本の裏側、ブラジルにも足を運んだ。感情をあらわにせず、常に毅然(きぜん)とした振る舞いを一貫していた。

だからこそ、胸に残る言葉だった。


2016年11月5日、史上最年少Jリーグデビューを飾った久保建英
2016年11月5日、史上最年少Jリーグデビューを飾った久保建英

6月29日、味の素スタジアム。レアル・マドリード挑戦への壮行セレモニーを東京が開いた。降りしきる雨の中でピッチの中央に1人立つと、これまで秘めた思いを口にした。

「日本に帰ってからずっと東京でやってきて。最初はあまり練習もいきたくなくて、つらい時期もありました」

FCバルセロナの規約違反(※国際サッカー連盟の規約19条「18歳未満の国際移籍・登録を原則禁止」)により、15年3月に帰国を余儀なくされた。

入団テストを受け、9歳で異例の合格通知をもらい、憧れのメッシのいるスペインへと渡った。世界最高の指導スタッフに練習環境で、順調に成長を重ねた。スペイン語の辞書を真っ黒にするほどの情熱でつかみ取った夢の舞台-。だが、そこから半ば強制的に離されることになった。忘れることのできない、苦い経験だった。決して口にすることのなかった思いが、感極まった場であふれ出た。

思えば久保が帰国して以降、バルセロナに関する話題は「タブー」だった。他にない貴重な経験であるはずなのに、その時間について尋ねることは暗黙でNGとされた。

FC東京が「次の試合のことに関する質問で」と報道陣をけん制することはあったが、クラブや本人が明確に取材拒否を発表した経緯はない。思い返せば、久保は10代にして、大人たちに質問をさせないような雰囲気すら放っていた。


2018年8月26日、J1初ゴールを決めた久保建英
2018年8月26日、J1初ゴールを決めた久保建英

久保がバルセロナでどんな時間を過ごし、何を感じ、何を得たのか。それは今も、世間には何も知らされていない。

南米選手権の日本代表に選ばれた5月下旬。バルセロナという経歴について聞いた。その時の言葉はこうだった。

「バルセロナといってもトップチームと下部組織の小学生ではレベルが違う。正直、もう過去のこと。自分としても、そういうのを言われるのはあまり好きではない」

冷静な言葉の中に、フラストレーションを感じた。自身の実力とは関係なく、不完全燃焼に終わった挑戦。その虚無感を掘り返されることを嫌ったようだった。

同時に日本人で唯一バルセロナの扉を開き、その先の厳しい世界に身を置いた者だからからこそ、短絡的な質問に憤りを覚えているようにも感じた。

帰国直後から、久保にはいつも「バルセロナ出身の」という枕詞(まくらことば)がついて回った。実力を世に知らせるために使われ続けた「バルセロナ」は、常に重圧を与える呪縛ともなった。周囲と違うプレーはできて当たり前。1つミスをすれば「こんなもんか」と、減点方式の目にさらされた。


2019年6月9日、エルサルバドル戦で日本代表デビューした久保建英
2019年6月9日、エルサルバドル戦で日本代表デビューした久保建英

昨年はもがき続けた。アイデアにあふれるパスにドリブル、技術なら随一。それでも東京では出場機会に恵まれず、単独で監督室のドアをノックしたこともあった。プレー時間を求めて期限付き移籍した横浜でも、思うような時間は得られなかった。

苦しい時間の中で、チームの方針に沿った仕事をこなす重要性を17歳で知った。

「サッカーはチームスポーツ。『俺が、俺が』ではいけない。選手の特徴はそれぞれあっても、コンセプトのところができなければ試合には出られない。それを10代の早い段階で分かったのは大きかった」

バルセロナ下部組織時代は、1シーズン30試合で74得点という突き抜けた数字を残したことも。攻撃力という明らかな武器を持ちつつ、さらに上のカテゴリーでは要求が増えることを理解した。

東京で求められるのは、ハードに走る守備への貢献だった。復帰した今季の開幕前キャンプでは、1日の走行距離がチームトップになる日もあった。

「子どもだったメンタルが大人になってきた」と長谷川健太監督の信頼を得た今季は、開幕からスタメンに名を連ねた。キラーパスで数々のチャンスを作ると、5月12日のジュビロ磐田戦で今季のJ1初得点を記録した。ここから2戦連発を含む4試合4ゴール。別人のようなプレーを続けた。


南米選手権エクアドル戦に出場した久保建英(撮影・PIKO)
南米選手権エクアドル戦に出場した久保建英(撮影・PIKO)

6月には南米選手権に出場。大会前には、冗談交じりに「負けたらまた自分のせいになる」とチームメートに漏らしたこともあった。自身の意思に関係なく、常に主人公。ただ、世代別代表でそれを嫌がっていた姿とは違った。ずっと心の奥にあった「自分はまだなにもしていないのに」というもどかしい気持ちは、J1で突き抜けたパフォーマンスを見せたことで消えた。

「びびっていたらもったいない」

そう言って向かった王国ブラジルの地。本気の南米勢が相手でも、得意のドリブルとパスは通用した。

持っている力を発揮する方法を知り、飛躍を遂げた久保を待っていたのは、海外超ビッグクラブによる争奪戦だった。既定路線とされていたバルセロナB(スペイン3部)への復帰をも飛び越えた、レアル・マドリードとの契約。15歳の頃から切り離されることのなかった「バルセロナ」を、実力で上回った。

ライバル同士で「犬猿の仲」とされる、バルサからレアルへの移籍。かつてルイス・フィーゴ(ポルトガル)が移籍した際には「禁断の移籍」と呼ばれ、大きな話題となった。今回の久保の移籍も、スペインの有力紙「アス」や「マルカ」で1面にも取り上げられるなど、大々的な報道が続いている。「バルセロナから奪った才能」という経緯が、現地サポーターの関心を大きく高めている。


壮行セレモニーでサポーターにあいさつする久保建英(撮影・大野祥一)
壮行セレモニーでサポーターにあいさつする久保建英(撮影・大野祥一)

時期を同じくして、バルセロナは鹿島アントラーズMF安部裕葵(20)に獲得オファーを出した。一部では、久保を引き戻せなかったことが引き金だともささやかれる。真相は不明だが、少なくとも、世界的2大クラブがどこか競うように極東の才能に目を向けている。

そんな2クラブの長く深い因縁も、気鋭の久保にはどこ吹く風だ。慣れ親しんだバルセロナではなく、マドリードへ向かう決断も、軸はぶれなかった。将来像、待遇も含め、戦力としてより具体的な挑戦の道を示したのはマドリードだった。過去のつながりにこだわることなく、飽くなき向上心がかき立てられる場所を選んだにすぎない。成長の可能性を感じて、プロデビューした東京を離れ横浜に飛び込んだように。プロフェッショナルとして-。それだけのことである。

今、日本人としてかつてなく高い壁の前に、18歳にしてたどり着いた。用意されているのはスター街道でなく、銀河系という高みを目指す、サッカー界随一のいばらの道だ。

ケガ、挫折、レンタル移籍-。久保の言葉のとおり「何が起こるかわからない」ほどの困難を乗り越えた向こう側に、本拠地「サンチャゴ・ベルナベウ」、そのピッチから見える世界一の景色が待っている。【岡崎悠利】