淀川の河川敷に、元気な高校生たちが帰ってきた。
大阪市旭区にある常翔学園。川沿いに建つ校舎を横目に堤防を上ると、土のグラウンドが見えてきた。
大阪工大高時代を含めて、全国高校ラグビー大会(花園)優勝5回。高校ラグビー界の名門も新型コロナウイルスの影響により、3月4~18日の期間が「在宅学習」となっていた。
3月20日、再開2日目の練習を監督の野上友一が見つめていた。すがすがしい青空から落ちてくるボールを、選手が「マイボール!」と言いながら捕球する。当たり前といえる光景を眺め、61歳は本音を語った。
「春は生物の芽が吹くように大きくなるんや。この子らも体が大きくなるし、上手になる。テスト期間も含めて1カ月ぐらい(練習を本格的に)やらんかったら、だいぶへたってるわ」
部活動の中止期間中、学校の教育の一環で部員が持つタブレットを活用した。毎朝、全員が近況などを記した日誌を提出。野上は部員57人分をチェックし、助言を添えて送り返した。
2月に行われた近畿大会では第5代表決定戦を制し、全国選抜大会出場を決めていた。だが、3月25~31日に埼玉・熊谷で開催予定だった晴れ舞台は中止。恨み言を並べるわけでもなく、名将はこう口にした。
「ピンチやからこそ、チャンスが生まれる。活動再開できただけでうれしい。楽しむのがスポーツやから。『大会がなかったら楽しめへん』やと悲しいわな」
例えとして、海外のスポーツ事情を挙げた。
「海外はシーズン制で、時期によって違うスポーツをしよる。日本では練習できひんのに慣れへんから、1カ月でなんやかんや思うけど。この期間を使って『自分でやる』っていう、自主性は高められる。これも、ええ経験かもしれん」
その考えの土台には、指導者人生での転機がある。
2007年3月、近畿大会で関西学院(兵庫)に26-29で屈し、1回戦負けを喫した。2カ月前の全国高校大会では4強。その後に新チームになったとはいえ、ダメージは大きかった。その足で会場の淡路島から淀川の河川敷へと戻り、部員は暗くなっても走り続けた。野上も自問自答した。
「このままじゃアカン」
2011年、チームで初めて実施したニュージーランド(NZ)遠征。オークランドの名門「ポンソンビー・クラブ」のコーチによる指導を受けた。野上は素朴な疑問をぶつけてみた。
「いいプレーって、どんなプレーですか?」
答えは単純明快だった。
「うまいこといったら、それがいいプレーだよ」
コーチの言葉が、簡単には理解できなかった。NZで取り組む練習も、淀川の河川敷で課していた基礎メニューと変わらなかった。
「最初は『やってること変わらんやん』って思ってな。でも後ろで『それじゃあ、勝てへんぞ』っていう声が聞こえる。誰もおらんねんけど、聞こえたんや」
確固たる自信こそなかったが、野上はその夜、ミーティングで岡田一平(現クボタ)ら部員に促した。
「お前ら、明日の練習、好きにやってええぞ。怒らへんから、好きにやれ」
急な指示に驚いていた教え子たちから、独創性のあるプレーが次々と生まれた。同年のワールドカップ(W杯)NZ大会では日本代表がフランスに、後半途中まで善戦しながら大差で敗れた。終盤、相手に崩された一因が、タックルを受けながら片手でつないだ「オフロードパス」。野上は心の中でうなずいた。
「それまでの教えは『ボールは両手』『簡単に放るな』。型にはまったことしか、やらんかった。NZのコーチに言われた『うまいこといったら、いいプレー』の意味が分かった」
翌12年度に7人制日本代表の松井千士(現サントリー)や、重一生(現神戸製鋼)らを擁して、17大会ぶり5度目の全国制覇を飾った。発想の転換は、低迷期もあった伝統校を変えた。
新型コロナウイルスの感染拡大は、全国選抜大会を高校生から奪った。主将のロック木戸大士郎(2年)は正直な思いを明かし、冬の花園へ決意を口にした。
「選抜がなくなって…悔しいです。でも、久しぶりにチームで練習をして、むちゃくちゃ楽しかった。いつもより試合は少なくなります。だからこそ1つ1つの試合を大事にして、その質を求めていきたいです」
走りながらのパスで基礎体力を高める「ランパス」、強力FWの武器である「スクラム」…。大粒の汗を流しながら、部員たちの明るい声がこだました。練習後、堤防を歩きながら、コーチの白木繁之は言った。
「選抜がなくなって、全国の高校生がかわいそうですよね。でも、僕はもう次に向けて切り替えました」
部室では手洗い、うがいなど、自己管理を徹底する呼びかけが繰り返され、練習試合の解禁も見通しは立っていない。それでも変わらず、前へ前へと進んでいく。(敬称略)【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)
◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大体大ではラグビー部に所属。13年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月からは西日本の五輪競技やラグビーが中心。18年平昌五輪ではフィギュアスケートとショートトラックを担当し、19年ラグビーW杯日本大会も取材。