選手として数々の栄光を手にした平尾誠二氏は、常に日本ラグビーの未来を見据えていた。34歳の若さで日本代表監督に就任し、外国人選手の積極起用や他競技からの人材登用など大胆な強化を敢行。レベルの底上げのために、社会人リーグの統合やプロ化を提言するなど、改革を目指した。早すぎた「平尾改革」は15年W杯イングランド大会での南アフリカ撃破につながり、日本で開催される19年W杯へと続く。

 現役引退直後の97年、平尾氏は34歳で代表監督に就任した。90年代前半までのラグビーブームは去っていた。95年W杯のニュージーランド戦の17-145の惨敗でさらに急落していた。競技人口は減少し、スタンドの観客も激減。誰よりもラグビーに危機感を抱いていたのは「切り札」として就任した平尾監督だった。

 就任前年に立ち上げていた「平尾プロジェクト」を加速させた。裾野の拡大や選手発掘に新しいアイデアを盛り込み、オーディションを行い他競技からも人材を求めた。多くの外国籍選手を招集し、マコーミック(東芝府中)を初めて外国籍の主将に指名した。練習を「2時間以内」に定めるなど内容を見直した。協会には選手の待遇改善を求め、代表の地位向上を目指した。チームスタッフには他競技からも人材を登用、最新技術を使った試合分析もした。

 日本ラグビー界の改革にも取り組んだ。各地域に分かれていた社会人リーグの統合を提唱。「それができれば、5年後くらいにはプロ化も」と夢をふくらませた。明敏な頭脳で日本ラグビーの未来を描いた。

 もっとも「保守的」と言われた日本協会には受け入れられなかった。全権を任されたはずだったが「調子に乗って」と批判された。サッカーなど他競技の常識も、ラグビーでは非常識。伏見工高から神戸製鋼までともにプレーした大八木淳史氏(55)は「いつもラグビー観が2つか3つ先を進んでいた」と話した。

 そんな平尾氏についていけない日本ラグビーは、暗黒時代を迎える。平尾監督で臨んだ99年W杯は3戦全敗。プロ化で急速に力をつけた海外との差は開いた。翌00年には「先を見て」若手を起用する強化方針が、「現状のベストで」とする協会と対立して辞任。日本協会が平尾氏の世界基準に気付いたのは、その後だった。

 日本協会の河野一郎理事は「今やっていることの多くは、あの時(平尾プロジェクト)のプログラム。前例を踏襲することなく、いろいろなものを生み出してくれた」と懐かしんだ。抜群の求心力を持つ平尾氏の思いはラグビー界全体に広がり、それが南アフリカ撃破にもつながった。

 「W杯開催が日本ラグビーの起爆剤になる」という信念で招致に尽力した19年大会。同時に「W杯はゴールではなく、その後が大切」と、ここでも未来を見据えていた。日本ラグビー界は偉大な先導役を失った。