nikkansports.comホームへ

すべてのナビゲーションを飛ばす。コンテンツへ すべてのナビゲーションを飛ばす。コンテンツへ
共通ナビゲーションここから 共通ナビゲーションを飛ばす。サイト内検索へ 共通ナビゲーションを飛ばす。サイト内検索へ
記事一覧   スコア速報   スポーツカレンダー  最新ニュースをRSSで公開しています
サイト内検索ここから サイト内検索を飛ばす。ジャンルナビゲーションへ サイト内検索を飛ばす。ジャンルナビゲーションへ
サイト内検索 
Powered by Google 
click here!
ジャンルナビゲーションここから ジャンルナビゲーションを飛ばす。ページメニューへ ジャンルナビゲーションを飛ばす。ページメニューへ
nikkansports.com・ホームへ ジャンルナビゲーション
野球ページへ サッカーページへ スポーツページへ バトルページへ 競馬ページへ 芸能ページへ 社会ページへ ライフページへ
ページメニューここから ページメニューを飛ばす。コンテンツへ ページメニューを飛ばす。コンテンツへ
新聞購読の申し込みはこちら

click here!
芸能TOP
音楽ダウンロード
シネマ
占い−0学占星術
インタビュー
イベント/チケット
黛まどか
TV全国番組表
おすすめコンテンツ
  ブログ&コラム
  TV全国番組表
  コンピ指数
  ショッピング
  サッカーメルマガ
  プレゼント
  占い−0学占星術
  映像配信


地域情報
  北海道
  東北6県
  静岡
  なにわWEB
  九州

コンテンツここから このページの先頭へ戻るこのページの先頭へ戻る
芸能タイトル

  インタビュー<日曜日のヒーロー>
 過去のインタビューは、日刊スポーツ紙面(東京本社発行分)でもご覧になれます。
 ご希望の方は→紙面バックナンバー申し込み
 なお、WEB上では、紙面より1週間遅れでの公開となります。
第471回    福沢朗  
2005.07.03付紙面より

福沢朗
写真=プロ意識に感じ入りました。撮影中これほど「ウンウン…」と、うなずき引き入れられたのもマレです。硬くなりがちな話が、福沢アナが言葉にするとすんなり心に入ってくる不思議。思いを込めて伝える姿勢こそが、テレビ局の看板を背負ってきたゆえんなのでしょうか。その立場を捨てての前進。「いつでもフリーでできるつもりで仕事をしろ」。後輩によく言っていたという言葉は、どんな仕事にも当てはまるのだろう、と頭の中に残っています
(撮影・浅見桂子)

ジャストミート続けたい

 不惑で迷って、ぬるま湯から抜け出した。6月30日付でフリーアナウンサーになった福沢朗(41)。日本テレビの17年間は、挑戦の連続だった。「ジャストミート!」「ファイヤー!」。代名詞となった絶叫フレーズも、淡々と冷静に客観的に物事を伝えるべきだという既成概念への問いかけだった。トップアナの名声とともにやってきた居心地のいいポジションに、居心地の悪さを覚えた時、野に飛び出すことにためらいはなかった。


突然

 突然の退社会見は5月13日だった。03年2月に朝の情報番組「ズームイン!!SUPER」を降板したときには、局側との衝突もささやかれた。まずは退社理由を聞いた。

 「会社には何の不満もないんです、本当に。特別待遇じゃないけど、給料も恵まれ、ある程度自分の好きなこともやらせてもらった。居心地がいい会社です。でも同時にこれが世に言う『ぬるま湯』なのか、という危機感も30代中盤から漠然と感じるようになった。これまでの僕を振り返ると、体が縮み上がるほどの緊張感、前日に眠れない冷や汗タラタラの仕事をクリアするたびに、何となくステップアップしてきた実感があった。そう考えると、今は縮み上がることも眠れないこともないんです」。

 −−やることがなくなったということですか

 「うーん…、人はそれを『大きくなった証拠』って言ってくれるんですけど、自分ではそう思わない。もう1度縮み上がりたい。アウエーで発煙筒を投げられるような環境で仕事をしなきゃと思ったんです。多分せっかちで貧乏性なんです。1つ達成すると『もっと、もっと』となる。本当に楽なんです、ここは。細かい仕事は若い人がやり、自分はしっかりバックスイングして仕事をすればいいだけですから」。

 決断の引き金は、2年前に始めた演劇集団「福沢一座」の公演だった。劇団キャラメルボックスとの共同作業が背中を押した。

 「僕らの仕事は、最後の段階でしかモノ作りに参加できない。前日に渡された台本を覚えれば、仕事の9割は終わり。一から作り上げる演劇の作業を通してアナウンサーの悲しさを痛感した。そして何より、演劇には明日がない。この公演を外したら終わりという、極限状態でパフォーマンスする緊張感。もう1度、縮み上がりたい僕の考えと一致するところでした」。


青春

 日テレに入社したのは88年。青春の傷が出発点だった。早大第一文学部2年の冬、役者を夢見て演劇研究所の門をたたいた。「プロの役者として食っていけるなら、堂々と中退してやろう」とまで決心した。が、3年後に不採用を宣告された。「大学は癒やしの空間、チャラチャラした学生生活を送ったら僕はだめになる」と放棄してきたキャンパスライフだったが、待っていたのは挫折だった。

 「へこみましたよ。当初50人の団員が2年後には半分になり、3年後には12人、周囲も福沢は残るだろうって話していて、僕もそんなもんだろうっていい気になっていた。鼻をポキッと折られた感じでした」。

 大学に戻ってきたときは6年生だったが、この挫折が、何よりのエネルギーになった。

 「しばらくは落ち込みましたが、たとえ3年間でも、おれはプロの俳優にもまれてきた、周りの4年間なんてたいしたことはない、こんな薄い連中には負けられないと思ったんです。ここで負けたら僕の3年をすべて否定されちゃうと。漠然とマスコミ志望があって、テレビ局を受けたのですが、だれより大きな声で面接し、ブイブイと就職活動をやらせてもらった」。

 −−負けず嫌い?

 「僕はある種、物事に対する恨みとか怒りとか、負の要素をエネルギーに変えるタイプなんです。大学に戻ってきて、就職部の係員に『つぶしの利かない文学部で6年生、高望みはするな』と言われた。悔しかったですね。以来採用が決まっても就職課には顔も出してません。僕を劇団員として取らなかった研究所への恨み、早稲田の就職部への恨みを日本テレビに入ってからも4〜5年は引きずっていました。社会人になっていい仕事を成し遂げるたびに『ざまー見ろ!』という気持ちが僕にありましたね。ネクラなんです。相当ネクラですね、僕は」。


修行

 反骨心は、サラリーマン生活も支えてくれた。2年目の「全日本プロレス中継」では「何も知らないでプロレスを語るな」のやじが会場に響いた。脅迫まがいの手紙も届いた。そして4年目。「アナウンサー人生17年の最大のヤマ場」と振り返る「アメリカ横断ウルトラクイズ」を前任司会者、福留功男氏から引き継いだ。

 「あれを乗り越えてからは、何だってできると思いましたよ。当時は福留さんというピラミッドの頂点の下に多くのクイズファンがいた。そこで突然頂点だけがすげ替えられて…」。

 「ニューヨークへ行きたいか!」を合言葉にクイズファンが福留アナに熱狂していた。そんな中、東京ドームのセンターバックスクリーンから全力疾走でグラウンドに走ってきた青年アナは、場違いな存在でしかなかった。「ニューヨークへジャストミート!」。反応は冷たかった。

 「女性ファンは泣いていました。スタッフだって『トメさんならもっと違う司会をした』って思ったはず。何でここまでしんどいものを背負うのかと思いました。でも、ここでへこんだらどうしようもない。あの仕事は僕にとって『修行』。あれを越えて、いつしか人生をオセロゲームのように思うようになった。黒星続きでもいつか必ず白が増える。それが分かった、メモリアルな仕事でした」。

 「ジャストミート!」は、プロレスで選手の十八番が決まった時に絶叫したことが始まりだった。以降このフレーズは、クイズ、バラエティーでも応用されるようになった。苦痛だったプロレスの実況で、独自の表現法をつかんだ。

 「ある種、正統派のアナウンサーらしからぬ、見ている方に摩擦を与えたと思います。アナウンサーは感情を押し殺して淡々と、客観的に伝えるものですが、僕は言葉というものは心の震えであると思います。言葉の魂を重視してやってきた。『けれんみが多すぎる』とか『わざとらしい』とかよく言われましたが。それはプラスの評価だと思います」。

 困難を正面から受け入れ、道は自分で作るものだと身をもって知った。


重み

 忘れられない言葉がある。93年にがんで亡くなった逸見政孝さん(享年48)が残したもの。88年にフリーになった逸見さんとある番組で一緒になり、こう聞いた。

 「アナウンサーに必要なものは何ですか」。

 逸見さんの答えは「向上心です」だった。

 「正直、当時はピンと来なかったんですよ。どんな学校の先生でも使う、相当摩耗した言葉じゃないですか。もっとすごいことを言ってくれると思いましたから、ときめかなかったんです。でも、今、僕も40代になってその言葉の重みが分かってきました。『向上心』を忘れた瞬間、ゆっくりとした坂道を転げ落ちていくと。多分、僕も後輩から同じことを聞かれたら『向上心』って言います」。

 今月からテレビ制作会社「イースト」に所属する。まだ、具体的に何をするかは決まっていない。

 「今までやったことのないことに挑戦したい。プロレスもそう。悪戦苦闘し、何とかその良さを見つけて楽しく伝える方法を考えたい。若者に『福沢の番組は面白い』って言われる番組を作りたい。企画、立案にも関与していきたいですね。常々思うのは、40代は自己研さんの場、50代で何を残せるかということ。東京国際マラソンで言えば、僕はまだ折り返し地点にも立っていない」。

 あぐらをかくのをよしとしない生き方。きっと福沢にゴールというものはない。


情熱ほとばしる

 日本テレビ馬場典子アナウンサー(31) 「生」の福沢さんとの出会いは、高校2年の夏。前年まで福留さんが司会をしていた高校生クイズに私が出場して、「ファイヤー」と叫びながら登場したのが福沢さんでした。その声に「だれだー」と応じてしまった私。「福沢一座」では、脚本家&座長として心身を削ってました。1週間で激ヤセしても、ノドがつぶれても情熱がほとばしり、表現者として200%で立ち向かう姿に、胸が震えました。「プロならばここまで上がって来い!」というオーラを発していた福沢さん。伝説の番組を、楽しみにしています。


 ◆福沢朗(ふくざわ・あきら) 1963年(昭和38年)9月14日、東京都生まれ。早大卒。88年日本テレビ入社。91年から「アメリカ横断ウルトラクイズ」の司会を務め人気に。以後「新装開店Show by ショーバイ」「とんねるずの生でダラダラいかせて」など高視聴率バラエティーの司会を担当。報道、スポーツ中継もこなすマルチアナ。退社後も「真相報道 バンキシャ!」「エンタの神様」など、同局で放送中の番組は継続する。180センチ。血液型O。


(取材・山内祟章)

前のページへ戻る このページの先頭へ
日刊スポーツから | 広告ガイド | 会社案内 | 採用情報 | このサイトについて | お問い合わせ
  nikkansports.comに掲載の記事・写真・カット等の転載を禁じます。
  すべての著作権は日刊スポーツ新聞社に帰属します。