40歳だった18年にJ2水戸で練習生を経て”ほぼ0円”でプロ契約。「0円Jリーガー」として活躍中のFW安彦考真(42=YSCC横浜)が、自身の感じるスポーツ界などの思いを語ります。

18年3月31日朝6時にその電話は鳴った。

「今日から水戸ホーリーホックの正式な選手として受け入れる」

39歳ですべての仕事を辞め、40歳でJリーガーになるという男の無謀な挑戦は、その日、希望へと変わった。

僕は24歳のときに清水のトライアウトを受けた。しかし、僕はそこで完全に萎縮してしまい、まともなプレーなど何一つできなかった。そこから僕は自分の人生にうそをついて生きることになる。僕はそのトライアウトの結果を受け入れることができず、言い訳を繰り返し唱える日々を歩み始めた。

自分をごまかし続け、偽り続け、気がつけば15年の月日がたっていた。どんな有能な詐欺師も自分だけはだまさない。素直になれない、正直になれない自分を嫌いになりそうだった。ただ、年収は1000万円。仕事も順調で、地位も立場もそれなりだった。今から何かを変えるにはもったいないくらいの生活がそこにはあった。

しかし、そこには充実や幸せがなかった。そう思ったときはもう40歳手前。人生の折り返しと考えていた40代をこのままごまかして生きていいのか。そんなことを自問自答する中、ある言葉が僕の中でふと思い出された。

「10回の素振りより1回のバッターボックス」

僕がことあるごとに使っていた言葉だ。

「お前はバッターボックスに立っているのか?」

そう言われた気がした。

知識や情報をためるだけの人生で終わらせてはいけない。やるなら今しかない。捨てるなら今しかない。僕はその場で会社に行き、すべての仕事を辞めた。

17年8月。僕は、お金も地位も名誉も捨て、子どもの頃に絶対になりたいと語っていた「プロサッカー選手」という夢を追い始めた。そこから8カ月で僕は「Jリーガー」になることができた。何事も始めるのに遅いことはない。ただし、早いに越したことはない。 Jリーガーになって3年目。毎日10代、20代の選手と同じピッチで同じ練習量で戦っている。スピードもフィジカルも体力も明らかに若手のほうが上だ。ダッシュをやればタイム設定にギリギリ間に合うかどうかだ。それでも僕は負けたくない。彼らに勝てなくても自分の弱さには負けたくない。もう二度と自分をごまかすようなことだけはしたくない。

僕は現在年俸120円、事実上の0円Jリーガー。それでもお金はなくても毎日がすごく楽しい。10代、20代の選手と本気でぶつかり合うその痛みは生きている証拠だ。僕らおっさんが楽しまなきゃ、これからの日本は盛り上がらない。僕らおっさんが大人って最高だろって見せなきゃ、子どもたちが夢や希望を持てない。失敗したって、後悔したっていい。後悔なんて取り返しに行けばいいんだ。

僕は、今年でJリーガーラストイヤーと決めている。自分を引退というリングのコーナーに追い込み、自らに最後の年という覚悟を植え付けたかった。覚悟を持って生きることで自らの細胞を開花させることができる。その開花した細胞がまだ見ぬ新しい自分と出会わせてくれると僕は信じている。ラストイヤーを表明したのは、飽くなき向上心の表れでもある。僕らおっさんにはそれができる。みんなで日本を盛り上げていきたい。(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「0円Jリーガー安彦考真のリアルアンサー」)

◆安彦考真(あびこ・たかまさ)1978年(昭53)2月1日、神奈川県生まれ。高校3年時に単身ブラジルへ渡り、グレミオ・マリンガとプロ契約も、けがで帰国。03年に引退も、18年3月に練習生を経てJ2水戸と40歳でプロ契約。出場機会を得られず19年に旧知のシュタルフ監督率いるYS横浜に移籍。開幕戦のガイナーレ鳥取戦で途中出場し、ジーコの持っていたJリーグ最年長初出場記録(40歳2カ月13日)を上回る41歳1カ月9日でデビュー。175センチ、74キロ。