国見を選手権6度の優勝に導いた小嶺忠敏は兄4人、姉2人の7人兄弟の末っ子として45年6月に生まれた。その3カ月前に父親は太平洋戦争で戦死。母親が1人で7人兄弟を育て上げた。農業を営みながら大家族を養った母の存在。厳しさと優しさ、それは指導者・小嶺の源といえる。

サッカーとの出会いは意外な形だった。堂崎中では兄の影響でバレーボールに励んだ。進学した島原商でも続けるつもりだったが、中学のバレーボール部監督に「身長172センチじゃ厳しい」と言われた。代わりに勧められたのが、サッカーだった。

島原商では恩師のアドバイスに従いサッカー部に入部、センターバックとしてプレーした。猪突(ちょとつ)猛進のプレースタイルから「ダンプ」とあだ名をつけられるほど、常にパワー全開。入部したころは素人だったが、負けず嫌いの性格でメキメキ力をつける。3年の時、九州選抜メンバーにも選ばれて主将を任されたりもした。

同校を卒業し、進学した大商大でもサッカーを続けた。しかし、当時の小嶺の中に「その先」はなかった。教員になる意思はなく、大学4年の時には数社から就職の内定をもらっていた。そんな小嶺の進路を動かしたのが、母校・島原商サッカー部の監督やコーチだった。熱心な誘いに、教員採用試験を受けて合格する。やはり運命に導かれていた。

小嶺「サッカーで人を育てたかった。中、高の恩師に出会い、スポーツを通じて人生が変わったが、人を育て、人を変えるのがスポーツだと思う。スポーツは人生の縮図。喜びや悲しみを総合的に含み、集団生活を醸成する場ですよ」。

島原商に赴任したのが68年。当初は部員十数人の弱小チームだった。そんなチームに愛情と情熱を注いで、実らせたのが77年だ。インターハイで初の全国制覇を成し遂げた。それは小、中、高、社会人を通じて初めて優勝旗が九州に渡る快挙でもあった。強くしたい一心で努力した成果のたまものだった。

当時の優勝メンバーだった山形監督の小林伸二は「インターハイで初めて優勝して、九州に初めて(高校サッカーの)優勝旗が渡ったときにすごく注目されてね。それで、地元に帰ってきてから少しは褒めてくれるのかと思ったら、小嶺先生の最初の言葉は『勝ってかぶとの緒を締めよ』だった。これは強烈に覚えているね」と振り返る。大きな栄光を手にしても、新たな目標が次にある。小嶺流の哲学が、継続して強いチームを生み出していった。

島原商には16年間、勤務した。全国高校選手権は70年度大会に初出場。73年度大会からは、11年連続で選手権の舞台に導いた。全国大会常連校に育て「名将」として、確固たる地位を築いた。しかし小嶺は固い決意を持って、新たな挑戦を選択した。(つづく=敬称略)【菊川光一】

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◆島原商サッカー部 古豪として知られ、全国高校選手権は56年度大会に初出場から10年連続で出場を果たした。以後、小嶺監督が就任して、70年度大会で復活。73年度大会からは連続出場を果たし、小嶺監督が国見に移った84年には優勝(帝京と両校優勝)を果たした。インターハイも77年に優勝。OBに小嶺のほか、山田幸介(元前橋育英サッカー部監督)、小林伸二(山形監督)ら。