長崎・国見高で監督を務め、03年度大会まで戦後最多6度の選手権Vを飾った小嶺忠敏さん(現長崎総合科学大付監督)が7日午前4時24分、肝不全のため長崎市内の病院で亡くなった。76歳。

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第100回選手権でも、長崎総合科学大付が出場していたが、昨年12月中旬からの体調悪化で初戦からベンチ入りできていなかった。通夜は8日午後7時から、告別式は9日正午から南高葬儀社 寳玉殿(長崎県南島原市深江町丁4593)で行われる。喪主は妻の厚子さん。

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人生を高校サッカーにささげた「伝説の名将」の小嶺さんが76歳で逝った。

思い入れのある新国立競技場への再帰は、かなわなかった。開催中の第100回選手権にも、長崎総合科学大付は出場したが、親しい関係者によると、数年前から肝臓など内臓を患い、持病の悪化もあって、闘病を続けていたという。最近も病院の短期入院や注射を打ち、薬を飲むなどして、いつ倒れてもおかしくない状況で指揮していたといい、昨年12月中旬に体調が悪化。初戦からベンチ入りできていなかった。

ライバル東福岡の志波総監督は「ちょっとでも何とかなるのであれば、つえをついてでも試合にはおいでになる方なんだけど。ずいぶんと状態が悪いのかなという気はしていました」。島原商で指導を受けた今季J3北九州の小林スポーツダイレクターも「調子が悪いとは聞いていましたが、不死身な人なので必ずリカバリーすると思っていましたから本当に残念です」と悔やむ突然の訃報だった。

国見時代、体調を崩して何度も入院を勧められた。だが、その都度「病は気から。練習があるから休めない」と拒んだ。同じスタンスで76歳までサッカーと向き合ってきたが、今回は病を克服出来なかった。

大商大卒業後の68年に赴任した母校島原商の監督を経て、84年から、当時の「弱小国見」を率いて、情熱的な指導と革命的な戦術で常勝軍団に鍛えあげた。島原商は部員13人からの指導者人生のスタートだったが、「鬼」と呼ばれた厳しい指導で古豪復活を遂げた。在任中の優勝はないが、83年度まで同校を12度の選手権出場に導いた。

国見では06年度まで21年連続で選手権に導き、87年度に悲願の初優勝。「こくみ」と呼び間違えられるほど無名の国見を常勝軍団にした。私財を投じて遠征用マイクロバスを購入、病院を借り上げて選手寮を確保した。一方、卒業生に「モルモットにしてすまなかった」と謝るスパルタ指導で鍛えた。365日練習漬けで試合数は公式戦を含め年間400。遠征では朝食前の試合を「モーニング」と呼ぶ1日最大6戦。00年度Vメンバーの元日本代表FW大久保は「血へどを吐くようなきつさに逃げそうだった」という。ただスパルタとはいえ選手には慕われた。

08年から長崎総合科学大付を総監督として率い、12年度選手権初出場をけん引、15年からは監督として指揮。ただ、サッカーを人間教育の一環と位置づけてきたことから、部員の礼儀や身だしなみには変わらず厳しかった。常に「チャレンジャー精神を忘れたら終わり」とのポリシーで向き合った。

選手権の監督(総監督含む)通算勝利数は85勝(島原商11勝、国見65勝、長崎総合科学大付9勝)。育てたJリーガーは、元FC東京FW平山やDF徳永、FW大久保嘉人ら30人以上。現役時代のあだ名は「ダンプ」。パワフルに駆け抜けた指導者人生だった。

 

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▽小嶺忠敏(こみね・ただとし)

◆生まれ 1945年(昭20)6月24日、長崎県南島原市(旧堂崎村)。兄4人、姉2人の7人きょうだいの末っ子。生まれる3カ月前に父親は太平洋戦争で戦死。母親1人で7人きょうだいを育て上げた。農業を営みながら大家族を養った母の存在。厳しさと優しさ、それが指導者・小嶺の源といえる。

◆スポーツ歴 堂崎中ではバレーボール部。身長が低く、中学時代の恩師の助言で、61年の島原商入学と同時にサッカーを始める。CBとしてプレー。猪突(ちょとつ)猛進のスタイルから「ダンプ」とあだ名をつけられた。

◆監督として 84年に赴任した国見で、選手権における国立での最多勝利となる15勝。同校で帝京に並び、戦後最多タイの6度の優勝。08年に長崎総合科学大付の総監督、15年からは監督に就任。選手権の監督通算勝利数(首都圏開催の76年度以降)は1位。

◆転身 07年夏の参院選に自民党公認で出馬(落選)した。V・ファーレン長崎社長などを経て、07年11月から長崎総合科学大特任教授を務めた。

◆教え子 国見ではFW大久保嘉人、FW平山相太らを輩出。国体の長崎選抜では、現在の日本代表森保一監督も指導した。

 

▽日本協会の田嶋幸三会長 小嶺先生の訃報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。まさに高校サッカー発展の大功労者でした。常に学ぶことをやめないその謙虚な姿勢に私も深い感銘を受けました。サッカーに人生の全てを捧げた方でした。心から哀悼の意を表します。そして、ありがとうございました。