日本サッカープロ化への礎を築いた森健児(もり・けんじ)さんが24日午後8時42分、肝細胞がんのため横浜市内のホスピスで死去した。85歳。葬儀、告別式は家族葬で営む。広島県福山市出身で、広島・修道高ー慶大を経て三菱重工(現浦和)入社。日本リーグ(JSL)総務主事、Jリーグ初代専務理事、日本協会専務理事など要職を歴任した。弟は68年メキシコ五輪銅メダルで元日本代表監督の森孝慈氏(故人)。

森氏がいなければ、日本のプロ化は遅れたかもしれない。29歳で現役引退後、裏方として長くチーム、JSLを支えた。早くからプロ化の必要性を訴え、85年にJSL総務主事に就任すると、翌年にはスペシャルライセンスプレーヤー(プロ)登録制度を導入。奥寺康彦と木村和司が国内最初のプロ選手となった。

88年にはJSL内に「第一次活性化委員会」を設置。木之本興三氏(故人)らとプロリーグのたたき台を練り上げると、総務主事の後任に川淵三郎氏を指名。プロ化が進んだ裏には、川淵氏の行動力とともにレールを敷いた森氏の存在がある。

プロ化だけではなく、少年やミニサッカー(フットサル)など幅広くサッカー界の発展に尽力。日本女子サッカー連盟の初代理事長として、会場の提供から遠征費の調達まで創成期を物心ともに支えた。Jリーグ発足の20年も前に三菱養和会で地域クラブ作りをするなど、常に先を見ていた。温厚な人柄で人望も厚かった。ただ、表に出すぎることは好まなかった。裏方として大きな功績を残し、02年に要職を離れた後は静かに日本サッカー界を見守っていた。【荻島弘一】