先日、東京オリンピックに参加するサッカーU-24日本代表のメンバーが発表された。その後、メンバー入りしたある選手がインタビューで「日本国民に勇気を与えるようなプレーをしたい」と抱負を述べていた。

悪気があるわけではないのは分かっているし、ここで選手を批判したいわけではない。でも「勇気を与えたい」という言葉は、いったいどこの誰に、どのような境遇の人に向かって言っているのか。選手本人が、ちゃんと考えて発言しているのかが、いつも引っ掛かるのだ。

日本のスポーツ選手が口々に「勇気を与えたい」と言うようになったのは、11年東日本大震災のころからだろうか。筆者はあの当時ですら、その表現に大きな疑問を持っていた。震災で家族を失った人々が、サッカーを見て「明日から頑張って生きていこう」と、はたして思えるだろうか。そもそもスポーツを見る気になるだろうか。

例えば、体が不自由なパラリンピアンが活躍することで、同様の障がいを抱えている子供たちが勇気をもらうことはあるだろう。そういう具体的な場合を除いて、スポーツ選手の「勇気を与えたい」という表現が適切だと感じたことは正直ないし、逆に「こう言っておけば、なんとなく大丈夫」という、ある種のアバウトさを感じてしまうのだ。

日刊スポーツのサッカー担当として日々、海外サッカーの情報を収集しているが、記憶が確かなら「勇気を与えたい」と言った外国人のサッカー選手には今のところお目にかかったことはないし、「勇気をもらった」と話したファンもいない。強いて言えばヘミングウェーの「老人と海」で、「あのディマジオも頑張っているんだから」と、ヤンキースの主砲に勇気をもらった漁師の老人がいるくらいだ。フィクションだが…。

現実世界で「勇気を与えた」に近いと思ったのは、今季欧州チャンピオンズリーグ(CL)で、アメリカ人として初めて決勝戦でプレーしたチェルシーの米国代表FWクリスチャン・プリシッチ(22)。彼は試合後「僕の姿を見て、子供たちが『自分にもできる』と思ってくれたらうれしい」と話していた。米国のサッカー少年、少女たちが本当にそう思ったとすれば、それはまさにプリシッチから勇気をもらったということになるだろう。ただ、試合前から「勇気を与えたい」と言ってプレーする外国人選手は、おそらくいないと思う。

筆者は、スポーツ選手はミュージシャンや俳優、芸術家などと同じで、アーティストだと思っている。「勇気を与える」というのはピントが外れた表現だが、そのプレーによって人の心を揺さぶり、感情に訴えかける。または映画などと同様に、それを見ている間だけは現実の嫌なことを忘れて、良い意味での逃避ができる。それがスポーツの良さだと思う。だから「勇気を与えたい」という言葉を聞くたびに「感動させるプレーをしたい」とか「嫌なことは忘れて、試合を見て楽しんでほしい」とか言えばいいのになあと、いつも思うのだ。【千葉修宏】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「海外サッカーよもやま話」)