日本記録5メートル83を持つ沢野大地(41=富士通)が、現役最後の試合で7位に入った。

「中学校から始めて現役生活を28年、幸せな競技人生を送らせてもらった。支えてくれたたくさんの方々に感謝のひと言です。競技人生は幸せのひと言、幸せでした」。

ふわりと宙に浮かんだ。5メートル20を1回目でクリアした。続く5メートル30は高さはあったが、胸がバーに触れて落下した。マットに倒れた沢野に、スタンドから拍手が降り注ぐ。沢野は立ち上がると、自ら拍手して、両手を挙げてスタンドの声援に応えた。20年以上もトップを走り続けてきた第一人者が競技に別れ。「41歳まで続けられて、元気な体でバーを越えて、若い選手たちと棒高跳びを楽しめた」と柔らかく笑顔で言った。

沢野は41歳の誕生日だった16日に今月末の引退を発表していた。今後は同部のアドバイザーに就任する。

沢野は中学校で棒高跳びを始めて、高校総体を2年から連覇。日大1年の99年に日本選手権で初優勝を果たした。その後は同選手権で通算11度の優勝を飾っている。05年には5メートル83の日本記録をマーク。ふわり宙に浮かぶ優雅な跳躍で「エアー大地」と呼ばれた。

棒高跳びは、戦前に五輪メダルも獲得した伝統ある種目だ。1936年ベルリン五輪では西田修平と大江季雄が4メートル25センチで並んだ。「日本人同士で争うことはない」と2、3位決定戦を辞退。日本側は先に4メートル25をクリアした西田が2位、大江が3位と届け出て、公式記録となった。帰国後に銀と銅のメダルを半分に割り、つなぎ合わせた「友情のメダル」は人々の記憶に刻まれた物語だ。しかし52年ヘルシンキ大会6位の沢田文吉以降は、長く世界に取り残されてきた。

救世主のように登場した「エアー大地」。同種目の復権を一身に担った。大きな期待が、その両肩にのしかかった。ストイックな姿勢で競技と向き合ったが、時に周囲をはねつけた。

世界選手権は7大会出場。五輪は04年アテネ、08年北京と出場。しかし12年ロンドンは代表から落選した。当時のA標準記録5メートル70を突破したが、日本陸連の決断はB標準記録突破で日本選手権優勝の山本聖途だった。「5メートル70を跳んで落とされたわけですから。鮮明に覚えている。あそこでやめられなかった」。落選直後の1、2週間は記憶があまりない。ただ多くの人に励まされて、再びポールを握った。「あれがあって、リオにつながって東京も目指せた」と振り返った。

失意を乗り越えて迎えた3度目の五輪。真夏のリオデジャネイロ。雨で競技開始が1時間遅れる中で、自分でつくった昆布と梅のおにぎりを食べて、静かに出番を待った。35歳、陸上選手団主将。悪条件の中で5メートル50を一発でクリアした。日本勢で沢田以来64年ぶりの7位入賞。「自分自身初めてだし、沢田さん以来の入賞を素直に喜びたい。緊張の糸がきれて…」と人目をはばからず、涙した。かつてピリピリした空気をまとって世界各地を転戦してきた。そんな男がリオの夜は海外選手からリスペクトを込めて「アンクル(おじさん)大地」と呼ばれ、沢野自身も笑った。「跳び続けられるなら、跳べばいいと思う」。そんな姿勢で41歳まで現役を続けてきた。

出れば、4度目だった東京五輪は出場できなかった。今後は後進の指導にあたる。「若い選手が力をつけて、5メートル40、50、60、70と跳べる選手が増えている。底上げはできていると思います」とうれしそうに話した。その上で次代を担う選手たちにこう言った。

「記録を跳ぶことも大事だが、世界で戦う強さを身につけてもらいたい。私自身、05年から海外を転戦する中で、棒をかついで1人、空港内をウロウロした上で、(大会の)ファイナルに残ったりしてきた。強さをみにつけてほしい。それが日本記録、アジア記録、そして6メートルにつながる」。

第一線を走り続けてきた41歳は競技終了後、後輩たちに胴上げされて、3度、大阪の空を舞った。ふわりと宙を舞ってフィールドに別れを告げた。【益田一弘】