駒澤大(駒大)の大八木弘明監督(64)が3冠を達成し、大学駅伝通算優勝回数を27回まで積みあげた。

04年に監督に就任し、平成の常勝軍団を作り上げたが、15年からの5年間は出雲、全日本、箱根いずれも優勝から遠ざかった。還暦を前に決意したのは、対話重視型への指導スタイルの変更。教え子たちとの関係に「令和スタイル」を持ち込んで、悲願をつかんだ。

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「おやじ」は毎朝、しんどいなあ、と思う。何しろ夜明けから自転車に40分もまたがらないといけない。しかも1キロ約3分50秒ペースで。「13キロくらいですよ。きついですよぉ」。ただ、2年前から欠かしたことはない。多摩川で朝練習する教え子たちの伴走をするためだ。「自分が変わらないと勝てない」。その思いが、大八木監督を動かす。

60歳を目前にした頃。優勝に届かなくなった。「子どもたちが、やらされているという感覚で身に付いてないな」と痛感した。昔は選手を「ばかやろう」と怒鳴りつけた。指導方法は「一方通行」と振り返るなど厳しかったが、「自分が変えて、自分が話を聞こう」と決意。対話重視のスタイルだった。

会話内容は趣味、服装、彼女がいるかなど幅広い。「趣味や生活、センスが分かってくる。いろんな面に通じるものがありますからね」。その延長線上に、“早朝自転車”の復活もあった。思えば常勝軍団を築いた時期も、血気盛んにやっていた。「自分がただ待っていても、選手の状態も分からないし。本気になって見てくれていると思われているのもあったり」。さらに選手を知るためだった。昨年からは、基礎体力作りのために約7キロのジョギングや8キロのバーベルを持っての筋トレも始めた。

今は褒める割合も増えた。「しかるのは4割、褒めるのは6割」。といっても基準は厳しい。「自己新くらいじゃそこまでほめない。区間賞取ったとかくらいでは」。最近は選手を「子どもたち」と呼ぶことも多くなった。田沢からは時にため口で話しかけられるが、「おやじのような感覚なんでしょうね」とうれしく思える。自分に息子はいない。教え子みなを、実の子のように感じる。

一方、「全然変わってない」と語るものもある。「こればっかりは唯一の楽しみだから(笑い)」という晩酌。ビールならジョッキ2、3杯が定番だが、指導法でも貫く信念がある。徹底的でこまやかなチーム作りは、「男だろ!」のゲキのイメージからは程遠い。

練習日誌は徹底的に読み込み、自分の手帳にメモする。日誌をつけるマネジャーらに「気になったことは全部書いておけ」と指示。選手が練習中にトイレに行ったタイミングも含め細かい。抜けていれば怒る。「重要です。この子はこうだな、おなかが弱いんだなとか判断できる」。コーチ時代から28年分、それがバイブル。特長をつかみ、適性を見極めてきた。

勇退を決めて臨んだ、最後の箱根路。どうしても届かなかった3冠は、毎朝「きついなあ」と思う日々の先にあった。ゴールの大手町、孝行息子に囲まれた「おやじ」の目尻は下がりっぱなしだった。【近藤由美子、阿部健吾】

▽大八木監督アラカルト

★選手時代 会津工業高校卒業後、実業団の小森印刷に就職も、24歳で駒大の2部(夜間)に入学。川崎市役所で働きながら競技を続け、箱根駅伝は1~3年まで3度出場。5区と2区で区間賞。

★指導歴 95年4月に低迷していた母校の駒大のコーチ就任。2年目の96年度の箱根駅伝で復路優勝、総合6位に押し上げる。助監督をへて04年4月に監督に就任した。

★3大駅伝27勝 コーチ、助監督時代を含めて、出雲、全日本、箱根の3大駅伝優勝27度を誇る。

★箱根4連覇 01年度~04年度まで箱根駅伝総合4連覇を達成。03年度の3連覇は往路・復路の完全制覇を成し遂げる。

★全日本3連覇 06年度~08年度まで全日本を3連覇。07年度は箱根との2冠を達成。

★駅伝3冠 22年度は出雲、全日本、箱根と3大駅伝を制して、史上5校目の3冠達成。箱根は往路・復路ともに制する完全優勝。

 

◆大八木弘明(おおやぎ・ひろあき)1958年(昭33)7月30日、福島県生まれ。会津工卒後、川崎市役所などを経て83年に24歳で駒大夜間部に入学。1年で5区区間賞、2年は2区5位、3年で2区区間賞を獲得。4年は年齢制限で出場できず。卒業後はヤクルトで活躍。95年に母校のコーチとなり、助監督を経て04年に監督に就任。