少し時間がたってしまったのだが、今年の3月11日で東日本大震災から10年を迎えた。私が大切にしている活動の1つである、公益財団法人東日本大震災復興支援財団が立ち上げた「東北『夢』応援プログラム」について書きたい。

私は岩手県大船渡市の子供たちにスマートコーチシステムを使用し、毎月タブレット端末を通して遠隔で水泳の指導をしている。もう5年もやらせてもらっているが、このプログラムこそが被災地のみなさんとのつながりそのものであるのだ。

2020年度は何もかもがイレギュラーだった。なかなかこのプログラムも開始されず、結局半年間という短い期間となった。通常ならば、始まりと終わりには大船渡を直接訪問していたが、今年はどちらもオンラインだった。

それでも、毎月の動画で子供たちの成長は明確にわかるものだ。水の中と外からを動画で撮ってもらっているので、よく動作がわかる。大船渡のmacメイワエアロビクスクラブの先生たち、親御さんには本当に感謝している。受けとる側、提供する側のお互いの熱量がないと、オンラインでの化学反応は大きなものは生まれないと私は思っている。

私にはこうした大船渡とのつながりがあるが、大船渡だけではなく、被災地の方からしたら、10年目というだけで節目でもなんでもないだろう。こんなに時がたってもすべてが復興したわけではない。ココロの復興も追いついていないと、岩手県紫波町の熊谷さんが以前言っていたことを時折考える。

私でさえ今でもあの時を思い出して、地震が来るとドキッとする。

2011年3月、私はまだ現役選手で、翌月の日本選手権に向けた調整を富山県で行っていた。あの日はちょうど、オフの日だった。バスに乗って街中に行く途中で、携帯にチームメートから「親に電話しな!地震だよ!」と連絡がきた。不安になり、すぐ埼玉の実家に電話をしたが、電話がつながらず「どうしよう」と思った。

バスを降りて周りを見ると、アーケードの大画面に津波で家や車がものすごいスピードで流れる映像が映されていた。言葉が出なかった。映画のワンシーンかとも思った。練習していたプールの水は半分なくなった。そのとき住んでいた千葉の新浦安は液状化でマンホールが浮き上がっているというニュースも見た。

そんな中、日本選手権は行われた。振り返ってみれば、改めてさまざまなことを考えた時間だったと思う。自分自身にとっても、2011年3月11日は忘れられない日になった。

当時「スポーツができること」をアスリートたちは考え、アスリート側から被災地訪問を提案した。それが、JOCのオリンピックデー・フェスタだった。被災地を訪問し、地域のみなさんと運動を通して触れ合うというものだ。

こうしたさまざまな活動で、私も被災地を何度も訪問させてもらっている。ラグビーワールドカップ2019のために建設された釜石市の鵜住居(うのすまい)復興スタジアム。2018年8月の「こけら落とし」イベントにもうかがい、たくさんの方に話を聞いた。その時、宝来館の女将の岩崎昭子さんは、釜石シーウェイブスの選手たちが被災後一番早く手伝いに来てくれたと話していた。苦しい状況の中でも温かい気持ちになったと言っていた。

現在、新型コロナの影響で訪問することができずにいるのが私自身はもどかしい。「雰囲気」を感じられない。空気感を感じられないことが悔しい。人と人とのつながりがこんなにも大切だと思ったことはないほどだ。

イベントはオンラインが主流になり、ニューノーマルとも言われている。しかし、気兼ねなく人に会える、話せる世界になってほしいと心から願っている。まずは今を受け入れ、今のベストを見つけることが大切なことだろう。(伊藤華英=北京、ロンドン五輪競泳代表)