2014年3月、ロシア軍がウクライナ南部のクリミアに侵攻すると、体操女子の64年東京五輪金メダリスト、ベラ・チャスラフスカさん(チェコ)は、即座に地元メディアを通じて、反戦への強い意志と、ウクライナ国民への激励のメッセージを発信した。直後の取材で、その理由について彼女は私にこう明かした。

「あの当時、私たちがどれほど自由を希求し、切望していたか。ウクライナの人たちほどは圧力に対して強健に立ち向かえませんでした。だから、自分たちの戦いが正当で、引き下がることができないと思っているウクライナの人々にはとても大きなシンパシーを感じたのです」。

1968年8月、ソ連が主導するワルシャワ条約機構軍の二十数万の部隊が、チェコスロバキア(当時)に侵攻し、ほどなく同国は占領下におかれた。侵攻の理由は、社会主義の同国全土で広がった民主化運動「プラハの春」。急速に高まる自由化へのうねりに危機感を抱いた隣国ソ連が、武力で制圧したのだ。

同年のメキシコ五輪へ向けた強化合宿中だったチャスラフスカさんは、すぐに知人の車で山奥に身を隠した。民主化運動に賛同する『二千語宣言』に署名していたからだ。紆余(うよ)曲折の末、何とか五輪に出場して連覇を果たすが、帰国後、ソ連のかいらい政権により、スポーツ界から追放された。

その後も『二千語宣言』の署名撤回を拒み続けた彼女は、職にも就けず、偽名を使い、スカーフで顔を隠して清掃の仕事をしていたと聞いた。困窮生活は社会主義政権崩壊まで20年以上も続いたという。ソ連の占領下に置かれた政府が、国民にどんな顔を見せるのか。彼女には手に取るように分かっていたのだと思う。

北京五輪閉幕を待っていたかのように、ロシア軍がウクライナに侵攻した。首都キエフ近郊での戦闘では、大勢の犠牲者が出ている。ソ連からロシアに国名は変わったが、理不尽極まりない強権的な手口は、半世紀以上もたった今も変わらない。16年に亡くなったチャスラフスカさんが生きていたら、真っ先に抗議の声を上げただろう。

災害や戦争に直面すると、スポーツは無力に思える。社会が平和だからこそ競技を楽しめるし、アスリートも輝けるからだ。ただ、チャスラフスカさんの時代と比べると、スポーツの力はずっと大きくなったし、トップアスリートの発信力は社会を動かす力にもなっている。今はネットで国境を超えて世界中とつながれる。

8年前、チャスラフスカさんのメッセージは世界的なニュースにはならず、スポーツ界からの声も小さかった。しかし、今回は戦争当事国ロシアを含む世界中のトップアスリートから、プーチン政権に「NO」の声が上がっている。政府を変えるのはいつだって民衆の力なのだ。戦争という強大な暗闇に、スポーツの力などかすかな光にすぎない。それでも、無数の光が集まれば、ロシアの民衆を動かす力になる。そう信じたい。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)