アブドーラ・ザ・ブッチャーの右手には銀色に光る凶器が握られていた。「あっ、フォークだ!」。実況の日本テレビの倉持隆夫アナウンサーが絶叫した。リング上で悲鳴を上げるテリー・ファンクの右腕は肉が割け、流血で右足まで真っ赤に染まった。それでもブッチャーはフォークを突き刺し、肉をえぐり続けた。

1977年(昭52)12月15日、東京・蔵前国技館で行われた全日本プロレスの世界オープンタッグ選手権の優勝決定戦。兄弟とも世界最高峰のNWA世界ヘビー級王座に就いたザ・ファンクス(兄ドリー、弟テリー)と、ブッチャー、ザ・シークの史上最凶悪コンビの対決は、プロレスとはいえ、恐ろしくて直視できなかった。

ところが、意外にもこの凄惨(せいさん)極まりない試合で、フォークの犠牲になったテリーの人気が日本で爆発した。宿泊ホテルにまで追っ掛けが殺到し、若い女性ファンによる親衛隊まで登場した。テリーは一夜にして日本プロレス史上最も人気のある外国人レスラーに駆け上がったのである。

要因は後に“伝説の名勝負”として語り継がれる、この一戦の感動的な筋書きと、主人公テリーの身を削る覚悟にある。

何とかドリーにタッチしたテリーは、リング下にもん絶するように倒れ込み、とても戦える状態ではない。リング上ではドリーが孤軍奮闘したが、やがて2人がかりの集中攻撃に窮地に追い込まれる。満員の会場のあちこちで悲鳴と怒号が上がり、絶望的な空気に包まれた。

その直後、右腕を白い包帯でグルグル巻きにしたテリーがリングに戻ってきたのだ。そしてブッチャーとシークに、怒りの左ストレートを続けざまにたたき込んだ。その不屈の闘志に、会場は爆発したような大歓声に包まれた。混乱したシークが、レフェリーに暴行を加え、ファンクスは反則勝ち。リングの上を無数の紙テープが舞った。

映画で例えるなら、テリーは体を張った主演男優賞ものの名演技だった。悪の限りを尽くす極悪人に、最後に正義の鉄ついを下す。当時人気の時代劇ドラマ『水戸黄門』に代表される、勧善懲悪を地で行くストーリーで、根底にしっかりと“兄弟愛”も描かれ、さらに“テキサス・ブロンコ(魂)”という彼らの不屈の精神は、昭和の“スポ根”とも通じて、日本人の心に共鳴した。

8月24日、米プロレス団体WWEがテリー・ファンクの訃報を伝えた。79歳だった。晩年は長年苦しんだヘルニアの手術や、認知症の治療で闘病生活を送っていたという。長きに及んだ命を削るような全力ファイトも、影響したのだろう。それでも、きっと彼は病魔に対しても、最後までファイティングポーズを崩さなかったに違いない。

振り返ると全日本プロレス中継は土曜日の午後8時から日本テレビ系列で全国放送されていた。フォークや凶器で相手を突き刺し、血だるになる映像が、家族だんらんのお茶の間に流れていたことに驚く。放送倫理が厳格になった今では、即刻放送中止だろう。テリー・ファンクはまさに昭和という時代が生んだヒーローだった。(敬称略)【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)

77年、アブドーラ・ザ・ブッチャー(左)に突きを入れられるテリー・ファンク
77年、アブドーラ・ザ・ブッチャー(左)に突きを入れられるテリー・ファンク
77年、テリー・ファンク(右から2人目)とドリー・ファンク・ジュニアの兄弟タッグがアブドーラ・ザ・ブッチャー(左端)ザ・シークと対決
77年、テリー・ファンク(右から2人目)とドリー・ファンク・ジュニアの兄弟タッグがアブドーラ・ザ・ブッチャー(左端)ザ・シークと対決
70年、ドリー・ファンク・ジュニア(左)とテリー・ファンク(右)のチョップを浴びるジャイアント馬場さん
70年、ドリー・ファンク・ジュニア(左)とテリー・ファンク(右)のチョップを浴びるジャイアント馬場さん
テリー・ファンク(2002年10月撮影)
テリー・ファンク(2002年10月撮影)
13年10月、兄ドリー・ファンクJr.(左)とともに「ザ・ファンクス」として来日したテリー・ファンク
13年10月、兄ドリー・ファンクJr.(左)とともに「ザ・ファンクス」として来日したテリー・ファンク