平昌(ピョンチャン)パラリンピック(3月9日開幕)に出場するパラアイスホッケー日本代表のGK福島忍(61)は、ため息交じりで言った。「油断というか、気が抜けちゃうのも仕方ないさ。日本協会の存続がかかった大会を終えた後なんだから…」。1月に長野市で韓国、ノルウェーなどを招いて行った国際試合、平昌へのチューニングアップ大会を5戦全敗の最下位で終えた時だった。

 昨年10月、日本はスウェーデンで行われた平昌の最終予選を5カ国中2位で突破した。この大会には日本協会、つまり日本におけるパラアイスホッケー競技の命運がかかっていた。

 10年バンクーバー大会で日本は銀メダルを獲得。夏冬パラリンピックを通じて団体競技初のメダルだった。そのチームが14年ソチ大会の出場を逃す。快挙後も改善されない競技環境、活動資金不足から満足な強化策を打てずに予選で敗退した。パラスポーツ、しかも夏に比べて陽の当たる機会の少ない冬季競技において、2大会続けてパラリンピック出場を逃すことは絶対に許されなかった。

 平均年齢が40歳を超えるチームが最終予選を勝ち抜いた要因はただ1つ。98年の長野大会をきっかけに始まった日本のパラアイスホッケーの歴史を終わらせたくない-という選手の熱い思い以外の何ものでもない。

 国内には北海道、八戸、東京、長野に4つのクラブチームしかない。競技人口は約50人。選手は仕事を持ち、家族を支えながらプレーをする。国内のスケートリンクも減少傾向に歯止めがかからず、少ない練習場をフィギュア、カーリング、スピードなどと分け合う状況が続いた。16年3月に長野県岡谷市のリンクが日本代表の強化拠点に指定されるまでは、代表合宿の練習が午前3時から始まることも当たり前だった。20年東京大会も逆風になっている。有望選手が夏季大会の競技に流れ、新戦力の発掘もままならない。

 パラスポーツを取材するようになって1年近くになる。現場で感じてきたのは、ありきたりな言葉だが情熱だ。ひたむきに努力し、戦う選手たちの向上心、闘争心、執着心。それをサポートする指導者、各競技団体関係者にも熱い思いがあふれている。それぞれの現場には健常者のスポーツと変わらない、いや、それ以上の熱がある。その事実を少しでも多くの人に伝えることができればと願い、時に自分の力不足を痛感しながら、また現場に足を運ぶ。【小堀泰男】