今月いっぱいで定年を迎える。自分が還暦を迎えることにも、入社から36年という年月が過ぎたことにもいまだに実感がない。

この仕事を選んだことで、たくさんの人と出会い、さまざまな経験をすることができた。今でも頭の中に鮮明に刻まれていることがいくつもある。

1983年9月、蔵前国技館だった。大相撲秋場所の中日。入社1年目の僕は午前中から記者席に座り、地方版用の原稿を書いていた。ファンの姿も数えるほどしかない。そこに現れたのが元大関貴ノ花の藤島親方だった。コロコロとした体つきの2人の男の子を連れていた。

「ニッカンさんだよね? 悪いけど2時間ばかり、この子たちの面倒を見ていてもらえるかな」

親方の両脇からちょっと恥ずかしそうに、笑顔で僕に視線を送ってきたのが、勝君と光司君だった。2年前の初場所で引退した親方は、相撲協会役員として館内警備に当たっていた。日曜日ということで2人を国技館に連れてはきたが、一緒にいられない事情ができてしまったのだろう。

返事を待つまでもなく、2人は僕の両隣にちょこんと腰を下ろしていた。わんぱく相撲で大活躍していた彼らは、メディアにも頻繁に登場していた有名人。ちょっと緊張した僕を挟んで、12歳の勝君は土俵上はもちろん、館内のお客さんや軽食や飲み物を売り歩く販売員の動きにも興味津々だった。11歳の光司君は序二段、三段目の取り組みに目を凝らし、自分も合わせるように体を動かしていた。

1個100円のソフトクリームを一緒に食べると、僕たちの間にあった壁もなくなり、2人はいろいろな話をしてくれた。その大半は記憶から消えてしまったが、以下のやり取りだけは忘れられない。

「大きくなったらどんなお相撲さんになりたいの?」

僕の質問に2人はこう答えた。

勝君「お父さんと同じようなお相撲さんになりたい!」

光司君「お父さんよりも強いお相撲さんになりたい!」

“角界のプリンス”と言われた貴ノ花は、小柄な体で長く大関を張り、相撲人気を支えた。強靱(きょうじん)な下半身を生かした逆転相撲でファンを沸かせた父は、勝君にとってヒーローだったのだろう。終盤まで賜杯レースに加わりながら勝負の大一番でライバルの輪島や北の湖に屈する父を、光司クンは悔しい思いで見ていたのだろう。

それから3年後、2人は一緒に角界入りした。「若貴フィーバー」は空前の相撲ブームを巻き起こし、社会現象にまでなった。それに続く洗脳騒動、兄弟確執、家族崩壊、貴の乱…。事が起こるたびにあの日のことを思い出してきた。2人の少年の言葉にこめられた思いは、その後のそれぞれの生きざまの根幹になっていたのではないか。取り口や相撲観はもとより、人生の選択にも強い影響を及ぼしていたのではないかと思う。

今、僕が36年前に戻れるとしたら、2人にどんな声をかけるだろう。

「自分の決めた道を信念を持って歩いていってね。頑張って」だろうか。

23歳の自分にはどう言うだろう。

「今後の若貴兄弟を見習って、もっと頑張れ。後悔しないように努力を惜しむな」だろうか。

【小堀泰男】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)